トゥールのグレゴリウスによるキルペリック一世とプリスクスの出会い
トゥールのグレゴリウスの「フランク史」の第六巻の五章からの抜粋は、キルペリック一世王と、彼のユダヤ教の臣民の一人であるプリスクスが著者の目の前で行った会談を取り上げた。
主人公の社会的位置が全く異なるにもかかわらず、譲歩を伴わない一種の霊的な戦いとして描かれている。
プリスクスは自分の信仰から何も省かないので、私たちにそれで彼の信仰、特にそのキリスト教に対する既約性を理解できることにしてくれています。
私たちは中世が単一のキリスト教だと簡単に想像している自分に、不意に不安定になっていることに驚いてしまいます。
プリスクスは、活気、独創性、例えばトロワのラシなど、他の証人が受け入れるユダヤ教の信仰の特異点を思い起こさせる。
魅力的ですもの!
キルペリック一世とプリスクスの出会いの文書
第五章
キルペリクス王がまだ上述の館に滞在し、荷物を整理して搬出するよう指示し、パリシウス[パリ]へ移動する算段をしていたころ、私は別れを告げに王のもとへ赴いた。 その時、王の商品購入を任されているプリスクスという名のユダヤ人がやって来た。
王はご機嫌を取るように手を彼の頭に乗せて、私に向って言った。
「こちらへおいで下さい、神のしもべよ、「お手をこの人の頭に置きたまわんことを」(マタイ伝、9、18)
ユダヤ人が嫌がると王は言った。
「何と頑な、常に不信心な民族か。この人たちは自分たちの預言者の声を通じて神の御子が約束されたことを知ろうとせず、その神の御子の犠牲の上に教会の神秘が建てられたことを知ろうとしないのです」。
するとユダヤ人は答えた。
「神は結婚せず、子を持たず、王国の中に自分と同等の者を必要としません。神はモーセを通じ、「今こそは見よ、 われこそは彼なり。 われの他には神なし。 殺すことと生かすこと、討つことと癒すことはすべてわれこれをなす」 とおっしゃいました」
そこで王は言った。
「神は霊的子宮で永遠の御子を産みたまうたのです。 年齢において等しく、全能において劣らず、自ら「暁の前に胎より汝を産めり」と述べておられます。神はあらゆる時代に先立って御子を産み、その御子を最新の時代の中へ、この世の救世主として送りたまうたのです。あなたがたの預言者が「み言葉をつかわして これを癒し」と言っている通りです。 それでも神はご自分では産むことなどなさらぬ、とおっしゃるのならば、あなたがたの預言者が神の声で、「我は産ましめる者なるにいかでか産む事なさざらんや」と述べているのをお聞き下さい。 これ は彼を通じ信仰によって再生する民族のことを述べているのですよ」
そこでユダヤ人は尋ねた。
「一体、神なるものが人となり、女より生まれ、鞭打たれ、死をこうむるなんてことがあり得ますか」
この言葉に王が黙り込んだので、私が口をはさんだ。
「神の御子、すなわち神が人となりたまうたのは、神の事情によるのでなくて我々人間の側の事情によるのです。
というのは、人間が罪を犯し、悪魔に従属してしまった以上、神は人の姿を取らねば人間をあがない戻すことがで きなかったのです。
「私はあなたが信じない福音書や使徒の言葉ではなく、あなたの聖書(旧約聖書)の言葉を引用しましょう。
ダビデがゴリアテをそうやってやっつけたと書いてあるように、あなたがたの剣で攻撃しましょう。
神が人になるだろうとあなたがたの預言者が言っています。「神であり人である者、誰かこれを知らん」とね。
また別の個所には、「これこそ我らの神にましますなれ、彼にたぐうべき者なかるべし。
彼は智恵のすべての道 をしろしめし、これをそのしもべヤコブとその愛したもうイスラエルに与えたまえり。
彼が処女より生まれたこともあなたがたの預言者の言葉に聞くことができます。
「この名は、神われらと共にいますという意味なり」と。
「また彼が鞭打たれ、十字架に打ち付けられねばならず、また種々の不正にさらされさいなまれることも、他の預言者が、
「わが手、わが足を刺しつらぬけり、またたがいにわが衣をわかつ」と述べ、また、
「かれらは苦草をわが食物に入れ、わが渇ける時に酢を飲ませたり」 と述べています。
そして主が十字架にかかりつつ、悪魔の支配に屈して堕落したこの世を、ご自分の王国のうちに建て直したまうことをダビデは、「神は直き木 (十字架)をもてこの世を統べたまう」 と述べています。 「主はそれ以前にも神の御許にあって、ともに統治の業をなしたまうてはいたのですが、ご自分の手で悪魔への隷属から解放したまうた民草を得て改めて、ご自身の王国を持ちたまったのです」
するとユダヤ人は、
「どうして神たるものがそんな目にあう必要があったのですか」 と尋ねた。
私は言った。
「すでに申しました。
神は無垢な人間を創造したまったのですが、蛇の邪知が人間をわなにかけたのです。
こうして人間は罪ある者になり、楽園から追放されてこの世の労働を担うはめになったのです。
人間が神と和解するためには神の一人子キリストの死が必要でした」
そこでユダヤ人は尋ねた。
「神は自ら人間の肉をまとわずとも、預言者か使徒をつかわして、人間を正道に戻すことができたのではありま せんか」
私は答えた。
二人間という種族は最初から常に間違った道を歩いていたのです。
大洪水もソドムの火災もエジプトの災難も、
海やヨルダン川の分裂もまったく人に畏敬の念を起こさしめませんでした。
人間は常に神の掟に逆らいました。
人間は預言者の言葉を信じませんでした。
いや、信じなかったばかりか、悔恨を説く彼らを殺しさえしたのです。
ですから、主自らあがないのために降りたまわずば、我々の救済が成就することはなかったのです。
我々は主の降誕によって再生し、主の洗礼により清められ、主の傷によって癒され、主の復活によって立ち直り、主の昇天により栄光にあずかったのです。
主が我々の病をいやすべく降臨したまうことについてはあなたがたの預言者も、
「彼は我々の罪を背負い、罪人のために祈りたり」 と言い、また、
「彼は屠殺場にひかるる子羊のごとく毛を切る者のまえに黙す羊のごとくその口をひらかざりき。
彼は虐待のうちに判決を受けたり。
その代の人のうち誰が彼のために口を開きしや」(同、53、7)、
「その名は万軍の主エホバ」 などと色々述べています。
また、あなたがたの誇りとするご先祖のヤコブが、自分の息子のユダを祝福する言葉、まるでキリストに向けられたようなあの言葉も、このことを述べているのです。
ユダは獅子の子のごとし、わが子よ汝は萌芽より身を起こせり、獅子のごとく、獅子の子の如くに眠れり、誰か故を起こさん。
誰か汝を起こさん」、とね。
主ご自身は、
とおっしゃいますが、 我々の方は、使徒パウロの言うように、
「心にて神のこれを死人のうちよりよみがえらせたまいしことを信ぜされば、救われざる」
存在なのです」
我々はその他にもまだ種々のことを話したが、この哀れなユダヤ人は決して改悛して信仰を持とうとはしなかっ た。
彼が黙りこくってしまったので、王は言葉で彼を改宗させることはできないと見て取り、私に向い、別れの祝福をしてほしいと頼み、言った。
「別れを告げる天使に向い、ヤコブが、
と言ったのと同じことをわしもあんたに言いたいのじゃ」
そう言いつつ王は手を洗う水を持って来るよう命じた。
私は手を洗い、祝福を述べ、パンをいただくと神に感謝し、それを自分と王とに分け与え、生のワインを口にして別れを告げた。
王は馬に乗り奥方と王女と従僕一同を伴ってパリシウスへ戻った。