〈フランス革命〉と言われている出来事は、1789年7月14日の時点で、すでにフランス革命と言えるのか。  

現代でのフランス革命

フランス革命(la Révolution Française)は、人権宣言(la Déclaration des Droits de l'Homme)のためであったり、現代社会の元の出来事として欠かせないのは否定し難いようです。

これだけ影響力のあるものとなっているため、または、フランス革命とよばれている出来事がいろんな次元に及ぶため、何であったかと語るのが簡単ではないと断言できます。

それなのに、同時に、「フランス」を省いて、親しんで、ただ、《革命》と呼ばれて来たものとして、統一しているかのように見えて来るため、語り方によって、革命の意義が真反対に異なることも不可能なことではありません。

一般的に、教育施設などでは、ソフィア(Sofia)()コッポラ(Coppola)が製作したマリー(Marie)(-)アントワネット(Antoinette)映画のように、展開が決定的に省略され過ぎていて、革命を暴力としてしか位置づけてないため、国民は矛盾とあいまいの中に陥ってしまうことになります。

そういった意味で、200年以上が経った現代でも、革命はまだ権力者たちにとって恐ろしい出来事としてしか意味づけられていません。

耳で、「か・く・めい」とのことばを聞くだけで、人が無意識に、密かに怖くなっているかのようで、自分からこの大きな出来事が何であったのか、と 少しも興味を寄せようとせずに、複雑すぎて、ややこしく思われているのが、一般的な見解となってしまっている傾向があります。

フランス革命とは?

革命ということば

指されている出来事が「革命」との言葉であって、不思議に登場して来る意を含んでいます。

「革命」は、「天命が(あらた)まること」の意を表し、王はなくなられる出来事として、王を亡くす物語になりがちで、国民が思い浮かべ想像している通りである点です。

この出来事を「革命」と呼ぶだけで、その出来事が必然的に起こったものとなってしまいます。

それに対して、当時に生きた人々は、そういった必然性の意識を持っていたかと考えると、見方が変わります。

革命は、いつから

現代、一般的に、革命は、1789年に始まったといわれていますが、当時に生きた人々が現代我々が革命と呼んでいる出来事の可能性を意識していたかどうかといいますと、「していなかった」のは間違いありません。  

実際、現代の歴史家たちが最近(最低1989年以降からでも)指摘して来た通り、1789年の2年前から、ルイ(Louis)十六(XVI)から歴史家ジャン(Jean)(-)クリスチャン(Christian)()プティフィス(Petitfils)によって「ロイヤル革命(la Révolution Royale)」と呼ばれた革命もあります。
ここではそう言った側面をこれでそのまま、置きますが詳しく深めるには、ここにある記事をご参照下さい。

あくまでも人々は、1789年時点においても、800年以上前の、いわゆるフランス王国がカペー朝を開いたユーグ(Hugues)()カペー(Capet)の治世が始まる987年から ずっと引き続きフランス王国は維持されているという意識で見ていただろうことを忘れてはいけません。

なので、バスティーユ襲撃(Prise de la Bastille)から始まったと言われている1789年7月14日の火曜日の段階では、3年と6ヶ月と7日間 経過後、国民公会(Convention Nationale)の議員たちに1793年1月21日の月曜日に王はギロチンで斬首刑による死刑が執行される王の死(la mort du Roi)とは誰も予想出来なかったというまでもありません。

王の死は1792年から

王の死 が可能となったのは、1792年であります。

回りの他の王政の国々の連合軍――主にプロイセン軍とオーストリア軍――が東北フランス国境に集中してきます。

同盟軍の計画が、1792年7月25日発されたブラウンシュヴァイクの宣言(Manifeste de Brunswick)で司令官ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公(Herzog zu Braunschweig und Lüneburg)が表現した通りです。

侵攻して、立法議会(Assemblée législative)から王を釈放するとの内容で、恐れが突然に現れるようとさせたのです。

それに対して、悲劇的な選択が立法議会議員らに迫って来ます。

何もせずに待ってしまいますと、立法議会が軍事でなくなってくるに違いありません。

軍事的な抵抗をするほかはないのです。  

王政愛や立法議会 への不信感で裏切る名門貴族出身軍隊士官も出ている環境で、立法議会が「祖国は危機にあり!(la Patrie en danger)」との宣言によって、 「ボランティアたち(les volontaires)」に呼びかけ、彼らはそれに応じ、徴兵に莫大な数で答えました。  

このボランティアたちはのちに「1792年のボランティアたち(les Volontaires de 1792)」と呼ばれるようになりました。  

彼らが戦線に向かって歌っていた軍歌が、後で十九世紀末にフランス共和国の国歌として選ばれた「(La)()マルセイエーズ(Marseillaise)」です。

君主制廃止としての革命

1792年9月20日、ヴァルミーの戦い(Bataille de Valmy)で、最初の勝利が決まります。

翌日の21日、「国民公会」と名を改めたばかりの旧立法議会では、新しい会期の初日で、王政廃止宣言(Abolition de la Royauté)を宣言することになります。

それで王政がなくなって、第一共和政(Première République)が戦争中に、発足しますが、王政がなくなって、そのまま、「共和政」との形は、自ら望まれた形ではなく、攻めに当たって、王政がなくなった後に成立した形として、一切余裕なく、誕生してきます。

そこから、1792年から1802年3月25日年までの十年間、フランスに現れた革命政府が、他の王政諸国と戦争することに陥る「フランス革命戦争(les Guerres de la Révolution française)」。

ただ、1803年5月18日から1815年までもの十二年間、「ナポレオン戦争(les Guerres napoléoniennes)」の名で《革命》と王政の対立が再開しますので、ずっと1792年からナポレオン(Napoléon)が敗北するワーテルローの戦い(la bataille de Waterloo)の1815年まで、およそ22年間も続いたのだとは十分断言できます。

ここでは、その対立の結果に触れないようにしますが、その時までのヨーロッパを大きく変わらせたことは明らかです。

1789年で始まった出来事は、革命でしたか?

現代から、革命は王の死刑と王政廃止に捉われるのでしたら、1789年の時点では、革命だとはいえる段階 ではありませんが、1792年のそれに導く必然的な始まりとしては、1789年が立っています。

それで、現代言われている革命が革命として、始まりは1789年、バスティーユ襲撃と終わりは1793年、王の死があって、対照的に、他の区分と違って、自立して存在することになっています。  

当時の人たちには、明らかに王政廃止を望んではいなかったにしても、王政枠内に、根本的な変更を期待してはいなかったとは、誰も断言できません。

変更が期待されていたのは、明らかですが、それは、何に対しての期待だったかとなると、そこに、まだ王政は王政として問題になってはいないので、意外と曖昧で、いろんな見方があるため、非常に難しい問題となりますが、そこが、1792年より、出来事の意義として、興味深いでしょう。

フランス革命は、一つの出来事として紹介されていることが多いのですが、自分で理解しようとすると革命自体がいろんな革命から形成されていて水晶化したことが見えて来ます。

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