プシケ物語

以下の文書は、現在のアルジェリア北東のアラブ語では、「メダウルッシュمداوروش」、古代のラテン語では、「マダウロスMadauros」出身のアプレイウスApuleiusが著わした、正式に『変容Metamorphoseon十一冊の本libri XI』、略して、『変容Metamorphoses』が、主人公ルキウスLucius驢馬ろばに変えられるため、親しんで、一般的に『黄金のろばAsinus aureus』と呼称されてきた作品の一部であります。

紀元後百六十年から百八十年の間に書かれたと思われています。

全体的な解釈は、複数の階層が重なるため、専門家たちにさえ、とても難しく見えていましたが、今日まで、読者たちや芸術家たちなどを、神秘宗教や魔術の要素のためか、魅惑させ続けてきました。

その中、特に『愛の神クピードー心霊の神プシケの物語』と知られている以下の文書は一番有名だと断言できます。

一般に「プシケの物語」と呼ばれていて、『黄金のろば』においては、第4巻28章から第6巻の24章までであって、筋としては、あるおばあさんが盗賊たちに誘拐された処女の気を紛らせるために語ろうとして、作品全体の筋に挿入されている物語の形を取っています。

物語が終わると、アプレイウスが皮肉的に主人公ルキウスに「こんなに結構な物語を記し留めておく紙と筆とが手許にないのを、ひとえに残念がるばかりでした」と言わせていることで(第六巻二十五章一)、著者が実際に、当時ローマ帝政ヌミディアNumidiaにあったアマーズィーグⴰⵎⴰⵣⵉⵖの口頭の物語に基づいていたことを意味している可能性を示しています。

以下の文書は、に岩波文庫で出版されたくれ茂一しげいち日本語訳をもとに、にフランス語でフォリオFolioで出版されたピエルPierre・グリマルGRIMAL訳を対象に検討されたものです。

出来るだけ日本語での間違いがないように努力しているつもりですが、それでも残っていれば、お手数ですが、このリンクで、改善のため、訂正の提供を宜しくお願いします。

 では、お楽しみください!

巻の四

巻の四

  1. むかし或る国に王様とお妃とがおいでになって、あいだに三かた容姿すがたもなみなみならず勝れた姫をお持ちでした。 そのうち年長の姫たちは、かおだちはまことにめでたくはおいでながら、ともかく人の世の賞め言葉でもしかるべくおたたえすることができようと思われましたが、末のお姫さまのとりわけて立ち優った美しさといったら、貧弱な人間界の語彙ことばなどでは到底言い表わすことも、ましてや十分賞めそやすなど思いもよらない有様でした。 そんなわけで国の内外から尋常よのつねならぬ姫の容色きりょうの噂を伝えて、多勢の人々がひたすらに群がり寄って参りましたが、皆々たぐえようもないお顔ばせのめでたさに胆を奪われて魂も中有ちゅううに飛び、終いには右手をくちびるに当て、人差指を立てた親指に圧しつけたまま、まるでヴェヌスさま御自身でもあるかのように、うやうやしくおがめ敬うのでした。
  2. 幾程もなく国つづき一帯の土地にずっと拡まった噂では、あの紺青の海のそこひに生れ、泡沫みなわ立つ波のしずくに養われてお育ちになった女神様が、今こそ諸方の国々へとうといお慈みをお垂れになる心ばせから、衆生の間に立ち交わっておいでになるそうだとか、あるいはきっとまた天上のしずくの新しい萌芽めざしから、今度は海ではなくて大地が、もうひとかたの乙女の華に装われた(新しい)ヴェヌスさまをお産みしたのに違いない、などというのでした。
  3. こういう風で日一日と際限もなくその話が広まり、近在の島々からおか一面、はては世界中の大抵の国々へまでこの評判が行きわたりますと、沢山の人達が長い旅路をかさね遠い海をわたりなどして、一代のえのものをと流れ込んでまいります。 今では誰一人としてパフォスΠάφοςクニドスΚνίδοςや、キュテラアΤα Κύθηραの島へさえ(本当の)ヴェヌスさまを拝みに舟を寄せるものはありません。 もつはとだえ社はこわれ、神様の御座所も汚れて祭儀もろくろく執り行われず、御像に懸けた花環もなくて侘しい祭壇は冷たい灰にまみれたままです。
  4. 人達が願いをかけるといえば、みなそのお姫さまへかける、そして人間のお姿を拝んでおいてこの広大な女神様の御神慮をなだめまつろうというわけで、若い姫君が払暁あけがたにおでましになるときなどには、いろいろなにえしろや山海の供物をおそなえして、そこにはおいでにもならぬヴェヌスさまの御名を呼んではおいつくしみを乞い、はては町筋を姫がお通りになるというと、人々はいつものように花環を献げたり、散華を撤いたりしてらいきょうするという始末なのでした。
  5. しかしこのように天上の尊栄をみだりに移して、不当にも死ぬはずの人間の乙女おとめおるがむことにえてしまった始終は、本当のヴェヌスのしんをはげしくあおり立てずにはおきません。 いきどおりに耐えかねて頭をうち振りうち振り、ひどく猛り立ちながら女神はこう自問自答なさるのでした。
  6. 「まあ見るがいい、宇宙万物のそもそもの産みの親だという私が、四大五元あらゆるものの初め起原おこりがさ、まあ、全世界の慈みの母のヴェヌスとしたことが、人間のむすめなどと一緒にされて尊い位をわけあい、天上にてられたこのみょうごう、下界のちりあくたで汚されるなんて。 きっとこれからは神前への献げ物も、一緒に分けあい、信心さえも身代りで好い加減にすまされてしまうのに違いない、そればかりか死ぬはずの(人間の)少女おとめが私の似姿をふれて廻ることなのだろう。 そうなったらあの羊飼の少年が、この私の世に類ない麗容あですがたを、他の二柱の女神たちよりずっと上に置いてくれたのもなんにもなりはしない、ユッピテルさまだって、あの子の判断みわけは正当で確かなものだと言って下さったのにさ。
  7. でもまあ、どんな女にもせよ、いつまでも好い気でもって私の栄誉を横奪りはさせとかないからね、見るがいいさ、いまにかえって自分の道に外れた容色かおかたちを後悔するようにしてやるから。」
  8. そこでヴェヌスは早速と自分の息子(愛の神クピードー)を呼び寄せました。 あの翼の生えた、随分と無考えな子供、いつもたちが悪くて公けのおきて定めもないがしろにし、えん(火炎)だの矢だのに身を固めては、他人の家屋敷を夜よなか駈ずり廻り、ひとの夫婦仲を滅茶滅茶にしたりして、罪も受けずに酷い悪行を働き、よい事はこれっぱかりもしないという子供です。 この生れついたずいままで始末にもおえない子を、ヴェヌスはまだそれでも足らずに口先きでけしかげたあげく、例の都へ連れて行ってプシケ——例の少女おとめはこう呼ばれていましたので——を眼に指し示し、前の容色きりよう争いの一部始終をすっかりと話して聞かせたうえ、腹立ちのあまりたんそくをついたりたけり立ったりして言うことには、
  9. 「どうかお前、おやと子の切れないえにしにかけて、お前の弓矢の快い痛手に、そのほのおみちのように甘いけどにかけて、頼むからお母さんのあだを取っておくれ、十分にだよ、そして容色きりょうを鼻にかけてるのをうんとどやしてやっておくれな。 それとね、このこと、何をおいてもこれだけは忘れずにやって貰いたいのは、あの小娘が世界で一番卑しい人間と、この上もなくはげしい恋におちいるようにね、で、その男というのは地位も財産も一身の安全さえも運の神様に見放されて、世界中を探してもこれほどにみじめな者はあるまいというくらいな(ひどい)人にしておくれ。」
  10. こういうとヴェヌスは息子に、長いあいだしっかりと接吻くちづけをしてやりまして、程もなく潮の巻きかえす近くの浜辺に赴き、薔薇色のおみあしでたゆとう波の頂きを踏みながら進んでいらっしゃると、見る見る深い海原が(底から)頂上まで澄みわたってしずまり返ります、そして女神が御胸にまだお思いになるかならぬに、もうすぐとまるで前からのお指図みたいに、海のけんぞくどもがわれ後れじと、御用を勤めにやって来るのでした。 ネーレウスΝηρεύςの娘らのうたまいの群も来れば、青い髪のざらざらしたボルトゥーヌス(古いローマの港の神)も、お腹に一ぱい重く魚を入れたサラーキアSalaciaも、海豚いるかに跨がっているちっぽけなパライモーンΠαλαίμωνも出て参ります。
  11. 観ればたちまちにあちらこちらから海中を跳んで、トリトーンΤρίτωνの群もやって来ます、嚠喨おともたかがいびやかに吹き立てるのもあれば、絹の暈をさしかけて燃えるような太陽の意地悪い光をおけするのや、鏡をもって女神様のつむりさきに差し出すものや、他のはまた二人組で御輦の下を泳いでまいります。 こうした群勢を引きつれてしずしずとヴェヌスは大海原へ進んでいらっしゃいました。
  12. 一方プシケは人並み勝れた容姿きりょうを持ちながら、まるで何一つ自分の美しさの徳をけてはいませんでした。 万人に等しく仰ぎられ、万人から賞め讃えられはしても、国王にも王子にもそれどころか庶民の間にさえ、誰一人として姫の婿にと望んで来る者がありません。 さて女神様のように気高いその姿に感じ入りはしても、みな巧妙にり刻まれた御像でも賞めあうような工合で、もうとっくに二人の姉の方は、程々の容色きりょうで国人の誰彼が別にめ伝えるというわけでもないのに、近国の王様とえんぐみして、幸福な結婚を楽しんでいるのに引き替え、プシケ姫はまだ良人もなく、ひとり家に籠っては捨小舟のわびしさをかこち、身も安からず心も傷み、あらゆる人から讃めたたえられる自分の容色を、自身はひそかに呪っている有様でした。
  13. こんな次第でしあわせな姫の父王も大変お困りになり、もしや天上の神々のお憎しみからか、または神怒の所為せいでもと畏れ気遣い、ミレトスΜίλητοςにおいでの神様の大昔から伝わた御たくせんを伺うことにし、とうをしたり供物を捧げたりして、大神さまにこの求め手もない少女おとめに縁組と良人とを授けて下さいますよう、お願い致しました。 すると、アポローンはギリシアのしかもイオニアの神様ですけれど、このミレトス物語の作者のために、ラテンの言葉でこう御託宣なさいました。
  14. 高い山のいただきに、主よ、その少女おとめを置け、死に行く嫁入りの、継いに飾らせて、また婿として人間のたねから出た者をでなく、荒くたけしくまむしのように怪物を待ち設けるがいい。翼をもって虚空を高くぎようしあるき、万物を責め、ほのおをもってすべてのものを痛め弱らす怪物、その者をユッピテルさえもれ、神々も彼には恐れをなし、諸川も、三途ステュクスの河のくらやみさえも怖気をふるう怪物なのだ。
  15. 前には仕合せだった王様も、この聖なるお告げを頂くと、足も重く暗い心で御殿に立ち戻り、奥様にこの情けない御神託のお指図をうちあけました。 何日となく皆して歎き悲しみ、涙をこぼしたりして悼みつづけるうちにも、酷いお告げのはたされる日は容赦なく迫って参ります。 そしてとうとう哀れな少女をとむらいのお嫁入りによおそい立たせるという時が来ました。 その松明たいまつの輝きも黒いすすの燃えくずでおぼろにかすみ、婚礼の祝い笛の音もいつしか物悲しいリュディアΛυδία風のかごとに変ってゆきます、陽気な嫁入うたもついにはいんうつあいとうの叫びごえとってしまって、お嫁入りするはずの少女が、なんということでしょう、(婚礼の)いろ面帕かおぎねでそっと涙を拭いてるという始末です。
  16. こうした不仕合せな王家の悲しい御運に、町中の人々ももろともなげきをお頒けし、皆々のあいつうから、やがてその日は誰彼となく仕事を休んで、喪にくという布令をいたしました。
  17. しかし神様のいいつけには従うよりありませんので、可哀そうにプシケは定められたおきをよんどころなく受けることになって、おとむらいじみた婚礼の儀式を一同のはげしい悲しみの中にも残りなく執り行ったうえ、町中の人を後ろに引きしたがえて生きながらの葬式が宮殿から繰り出され、こうやってプシケは涙ながらに嫁入りではなくて、自分の法事に連れてゆかれたのでございます。 さて悲歎にくれた両親があまりのびんさに心もくじけて、この酷たらしいしょぎょうをやりとおすのをためらってますと、かえって娘の方がこういって両親を励ますのでした。
  18. 「なぜお二人ともお年を召して不運なおからだを、長いこと泣き悲しんでお傷めになるのですの、どうしてあなた様方のお心を、それもまあ私のものともいえますのに、ひっきりなしに歎きつづけてお責め立てになりますの、どうして甲斐もない涙でもって、大切な尊いお顔をお汚しなさいますの、なぜお眼をいためつけて、(これを見る)私の眼をお苦しめになるのです、どうしてまた白いおきじきむしったり、お胸を、尊い乳房をお撃ちなさいますの。
  19. これがこの私の人並み勝れた容色きりょうの立派な御褒美として、あなた様方のお受けになったものでございました。 やっと今になっておわかりになりましたのね、私たちは道に外れたはげしい妬みのために、死ぬほどな痛手を負されていることが。 私を神様のように諸国の人々が敬い尊んだ時にこそ、ロを合せて私を新しいヴェヌスだと称えた折にこそ、お二人は悲しむなり泣くなり、私をもう他界した者のように悼んで下さったはずでございました。 でも今こそ私もはっきりと解って参りました、自分がヴェヌスなどと呼ばれたばっかりに、この身を滅ぼすことになりましたのが。 ではさあ、私を連れて行って、あの神籤おみくじにあったいわおの上に据えてくださいませ。 早速にも私はその仕合せな御婚礼の式を済ませて、私の立派な良人にも会いとうございますから。 何もそれを引っぱっておくことも、やって来る者を拒むこともございませんもの、その全世界を滅ぼすために生れたというひとを。」
  20. こう言いきると少女はロをつぐんで、足どりもたしかに、ついてゆく人々の行列の中へとはいり込みました。 そしてけわしい山上の定めのいわおに著きますと、その天頂てっぺんに姫を置いて一同は退散し、道を照らして来た婚礼の炬火たいまつも、涙のためにけやされたままそこへ打ちすて、首を項垂うなだれて帰り路を辿ってゆくのでした。 一方姫のふたおやは言いようもないしあわせに気もくじけては、家を閉ざして暗闇の中に引き籠り、絶間のない悲敷に身をまかせていました。
  21. さてプシケは畏れおののき、いわおの頂きに泣き伏しておりますところを、和やかに吹く 西の優しいそよかぜ(ゼフィルス)が、そこからここからと衣をゆすぶっては動かし、ふところを膨らませてはだんだんと乙女を持ち上げ、穏やかな風の息吹きにのせて高いいわおの下道をゆるゆると運んで行って、とうとう麓の谷の花盛りな草原の真中へ、そっと下ろして横たわらせました。

巻の五(一)

巻の五

  1. プシケは柔かに草が茂ってまるで露に濡れた芝の臥床ふしどといった場処にそっと身を横たえ、動転した胸もようようにしずまって来たまま、い気持に寝んでおりましたが、程もなく十分に眠りも足り、気分もさっばりしてまいったので、やっと人心地を取り返して起き上りました。 見ると眼の前には高いおおきな樹のしげった木立があり、その木立の真中まんなかに透きとおってのような噴水が湧いています。 その泉の傍らには壮大な宮殿が見えますが、その様子が人間の手で造られたものとは到底思えず、どうにも神様の御業に違いありません。 何よりも一足その中へはいって行けば、すぐにも目前めのまえにある御殿がどこかの神様の壮麗でまたたのしげな旅処とまりだということが解りましょう。 上の格天井にはせんだんだの象牙だのを巧妙にり刻んではめ込み、その下に黄金の円柱がずらっと並んでいて、ぐるりの壁にもすっかり銀を被せ、その上に野獣やその他いろいろな家畜が浮彫になって、まるではいって来る人の面前に立ち向ってくるようです。 こんなにも微妙に勝れた腕で、銀でもって獣の姿を写し出した人は、必ずや立派な工匠たくみか、またはそれどころか半神か、それともまさに神様かに相違ありません。そのうえゆかさえも貴い石を細かくモザイクにして、色々な絵が描き分けてあります。 こんなに沢山な宝石や珠玉の上をふくんで歩く人は、きっと幾度も祝福された仕合せ者に違いないと言いきれます。
  2. 御殿の外の部分も見渡す限り値打もわからないほど立派に飾られ、どの障壁かべも金の大板で固めてあって、そのきらめきといったらまるで太陽もさないのに、御殿中が自分の明りで日中のように照りわたるほどです。 寝間も玄関も扉さえもその通りきらきらと輝いていますし、また御殿のよその方もこれに劣らず結構を尽して、まさしくこれこそユッピテル大神さまが、人間界に御こうなさる時のため造営になった天の宮居かとも思われるのでした。
  3. その景色のたのしさにりこまれて、プシケはもっと傍へと近寄って見ました。だんだんと気安くなってとうとうしきいのなかへはいって参りますと、たちまちによのつねならず美しいその有様に心を奪われ、さて熱心に次々と覗き見をしてゆくうち、建物の向う側に立派な腕前で造り上げた大きな倉があって、沢山な御宝物でぎっしりと詰まってるのが目につきました。 どんな品物でも(世界にある宝で)その中にないものとてありません。 けれども、その目をみはらせる豪勢な財宝もさることながら、とりわけて不思議なのは、この世界中のお宝が集めてあるところに、何の鎖も錠前も、番人さえも附いていないことです。
  4. その間をプシケがうれしさに夢中になって観てまいりますと、(どこからか)姿も見えない声が聞えて申しますには、
  5. 「奥様、なぜこの沢山な財宝おたからを見てびっくりなさいますの、これはみんなあなた様のものでございますのに。ですからさあ寝間にいらして、十分にやすんでお疲れをお癒しになってから、お気が向いたらお風呂におはいり下さいまし。 いまお聞きになっておいでの声は、私どもあなた様の侍女こしもとたちで、これからはまめまめしくお仕え致しますが、お体がすっかり元気におなりでしたら、すぐと立派な御馳走をさし上げることになっておりますから。」と申します。
  6. 形のない声のいうことを聞いてプシケは、これはきっと神様のお心づけから出た、恵み深いお指図であろうと悟りましたので、まずよく寝んで、それから今度はお湯にはいり疲れを癒した後、ふと見るとすぐ手近に半円形のソーファがあって、そこにはいろいろな食事の道具がおあがり下さいといわぬばかりに並べてあります。 いそいそと心もたのしくその席に座りますと、忽ちに仙酒ネクタルのようなお酒だの、さまざまな御馳走のお皿がどっさりと、しかも給仕人もなしに何か風にでも押されてくるように、出てまいります。 誰一人姿は見えず、ただ落ちてくる言葉だけが聞えて、つまり声ばかりがお給仕を勤めるわけなのです。
  7. 立派な御馳走のあとで、誰かがはいって来るけはいで歌を唱いましたが、姿は見えません、また誰かが堅琴を弾くのですがその琴の形も見えませんでした。 それから今度は多勢が一所に集って合唱する声が聞えてきて、誰も人の形は見えないながら、確かに歌舞コロスの群がその辺にいる様子でした。
  8. その娯しみもお終いになると、タ暮の誘いにまかせてプシケはしょうにはいりました。 さて夜もいまはけた頃おい、耳もとで優しいものごえが致します。若い女のそらで、しかもたった一人きりのことゆえ、プシケは心も添わず怖じおののき、何者ともしれぬまま考えつく限りの、 いかような災難被害よりもずっと怖く思うのでした。
  9. とうとうまだ見も知らぬ良人が現れて台に上り、プシケを新妻として迎えいたわると、夜も明けないうちに急いで出かけてしまいました。 とすぐに声たちが寝間へ来て、花嫁のお世話をいたし、少女おとめ気のさまざまに乱れたこころを慰めるのでした。
  10. こういう風にして長いこと暮しているあいだに、いつしかだんだんと自然に馴れて、初めには奇妙と思われたことも始終なれっこになると楽しみに感ぜられてくるというわけ、声だけの者もいつの間にか様子なれない寂しさの慰めと変ってくる有様でした。
  11. さて一方姫の御両親は、絶える間もない悲歎のあまり、すみやかにひどく老けておしまいになって、その噂が段々と弘がってゆき、ついには二人の姉姫の耳にも始終のこらず伝わりましたので、それを聞いた二人の姉達は大そう心配をして胸を痛め、執るものもとりあえず自分の家を発つと、互いに遅れじと両親のところへお見舞に出かけて参りました。
  12. ちょうどその晩、プシケに向って良人はこう申し出ました、眼では姿が見えないながらに、手や耳やでもってすれば、十分に理解はつくわけでしたので——「本当に優しいプシケ、私の可愛い妻よ、運命の女神フォルトゥーナは前よりも一層意地悪く、お前に命も危いほどの難儀をさせようとしてるのだから、もっともっと十分に気をつけて用心しなくてはいけないよ。 今度お前の姉さん達がね、お前をもう死んだと思って大騒ぎして、お前の跡を尋ねさがして間もなくあのいわおのところへやってくるのだ。 だがあの人達の歎く声がひょっと聞えて来たにしたって、けっして返事をしたり、ましてや一寸でも顔を見せたりしてはいけないよ。 さもないと私には酷い歎きをかけることになるうえ、お前自身にも取り返しがつかない破滅を招く仕儀になろうから。」
  13. 少女おとめ点頭うなずいて良人の意見通りにする約束をしましたものの、夜と一緒に良人の姿が消えてくと、一日じゅうあわれ気に涙をいたし胸を叩いて日を過ごし、もう自分には何一つ生きた甲斐もないように言い暮しては歎くのでした。 自分はもう楽しげな牢屋の中に閉じ籠められて人間と話をすることも差し止められてる上に、姉妹とさえ、それも自分のことを泣き悲しんでいてくれるのに、いたわり慰めることはおろか、ひと目なり会うこともできないなんて——こう言ってお風呂にもはいらず食事もせずに、何をして心を慰めるともなく、ただひたすらに泣きつくしたあげく、やっと寝床にはいりました。
  14. 程もなく平常いつもより一寸早目に良人が傍に参りまして、まだ泣き濡れている少女おとめを優しく抱きながら、とがめだてて申しますには、
  15. 「これがお前のした約束だったのかえ、プシケ、一体お前は私にどうしてくれというの。 昼だって夜だって、こうして一緒にいる時でさえも、まだ泣いてまだえてばかりいるのだもの。 ではもう好きなようにしなさい、そうして災禍わざわいを求める自分の心に従うがいい。 ただあとで後悔しだしてももう遅いときに、私が本気になって戒めといたことだけは、忘れないでいておくれ。」
  16. そうすると少女はしきりにせがんだり、はてはもう死んでしまうといって脅したりして、とうとう良人に自分の頼みをかせてしまいました。 姉さん達に会ってその歎きをしずめ、またお互いに話しあうことを許してくれるようにです。 こんなわけで良人はしんよめの願いを聞き届けてくれたばかりでなく、その上また金銀でも宝石でもやりたいだけを姉達にやることも許してくれましたが、ただ繰り返し繰り返し、けっして姉達のよこしまな勧めにそそのかされて、自分の貌を見ようなどとしてはならぬ、さもないとそんなつつしみのない妃奇心ものすぎから、これ程も大きな幸福の絶頂から奈落の底へとおっこちてしまうばかりか、もう今後は良人に逢うこともかなわなくなるのだから、と脅しかつ戒めるのでした。
  17. プシケは幾分元気を取り返し、良人に礼を言ってまた申しますには、「まあ、あなた様とこうして楽しく暮せなくなるくらいなら、いっそ私は百度もその前に死んでしまいますわ。 だって私は死ぬほども、たとえあなたがどんな方でいらしても、おしたいしているのでございますから。本当に自分の命とおんなじに、愛の神さまだって到底くらべものにならないほど大切な方ですもの。 でもどうかお願いですから、このこともついでにお許し下さいましね、あの御家来の西風ゼフィルスに言いつけて、前と同じに姉達をここへ連れて来させて下さいまし。」 そして気もとろけるような接吻くちづけだの甘えた言葉やほうようだので無理やりに浪人をなだめすかして、その上また「ね、私の可愛い方、私の旦那さま、あなたのプシケのたのしい生命いのち」などと甘えながらに言い添えるのでした。 そのいとしかなしい{r}密語(ささめき{/r)}の力にひかされ、心ならずも良人は説き伏せられて、何でも望みのことをしてやる約束をしてから、朝の光がさし寄るままにまた妻のかいなから姿をかくしてゆきました。
  18. さて一方、姉達はというと、例のいわおの、プシケが置きざりにされた場処を訊ね出して急いでやってき、そこで眼を泣き腫らし胸を撃って歎くことといったら、あんまりひっきりなしにわめき立てるので、岩や石やがお互いに反響こだましあうほどでした。 それから今度は不仕合せな妹の名をやたらに呼び立てるので、とうとうその喚き声が下の谷底まで徹って響きわたりますと、プシケはもう夢中になって気も狂おしく、身を震わしながら家を走り出て申しますには、「まあどうしてあなた方はそんな衰れげな歎き声で、甲斐もなくお心をお痛めになりますの、悲しんで下さる本人の私はここにおりますのに。 ですから、どうかそんな情けない声をお立てにならずと、長いこと泣いて濡れたお顔も乾かして下さいましな、だって今しがたまでくやんで下さった私を、もう胸に抱きしめて下されるのですもの。」
  19. 西風ゼフィルスを呼んで良人の命令いいつけを伝えますと、待つ程もなく指図の通りに、この上もなく穏やかな風に載せて、何の障りもなく姉達を運び下ろしてくれました。 三人の姉妹はそこでお互いに抱きあったり忙しい接吻くちづけを交わしたりして喜びあうひまにも、一度は納まっていた涙がまた新規な嬉しさまのあまり湧きかえるのでした。 「とにかくまあうちのなかへ機嫌を直しておはいりになって、姉さまのプシケと一緒に、うっとうしいお気持ちをさっぱりなさってくださいまし。」
  20. こう言って(プシケは姉達を家の中へ連れ込み)、金色の御殿中の大へんな宝物を見せたり、声ばかりでかしずいてくれる沢山な侍女こしもとを姉達の耳へ引き合せたりした上、結構を極めた風呂や人界のものとも思えない立派な御馳走の数々で心ゆくばかり接待もてなしますと、姉たちはこういろんなお宝が天国そのままにどっさりと溢れるほど一杯ある様子に呆れ果てて、今は心の奥深くひそかに嫉み心を強めてゆくのでした。 到頭終いには一人の方が色々と物ずきに、こんな天国のようなお宝の持主は誰なのか、またプシケの御主人は何といって、どんな様子のかたかなどといつまでもうるさく訊ねるのでしたが、プシケは先刻良人に言われたいいつけに決して背かないで(そんなことは)胸の底へ深く畳んで洩らさずに、自分の良人はまだ若くて様子がよく、やっと綿わたような髯がくちばかりにうっすり生えた許りで、いつも大抵野山へ狩猟にばかり出かけているのだなどと口から出まかせに言いこらしえました。 そしてまた長く喋っていてうっかり胸の秘密をさらけ出しなどしないようにと、金の器具うつわや宝石の飾りをどっさり持たせて、早速西風ゼフイルスを呼ぶと二人の姉を送り返させるのでした。
  21. こうすぐ送り返されて殊勝な姉達は家に戻りはしたものの、忽ちいや増す苦汁せんぶりのような嫉妬に胸をこがして、種々と二人互いに語りあっては騒ぎ立てるのでしたが、とうとう一人が申しますには、「まあ運の神様は、ほんとうに盲で意地悪で、依怙えこひいきだわ、同じ親の娘なものを、気紛れにまるで違った仕合せを受けさせるなんて。 しかも私達は本来が年上なのに、外国人の良人の下婢はしため同然にやられてしまい、自分の家にもお里にも国にさえわかれて、両親からも遠いところでまるで流人ながしもの同然に暮しているのに、あの人は一番下の妹で、もうお産は結構という末子に生れておいて、あんなに沢山なお宝や神様の良人を持ってるのだもの。 そんなにどっさりお貨財かねをもってたって、ちゃんとした使い方も知らないくせにさ。
  22. ねえ、姉様だって見たでしょう、どんなに家中一杯に、何て立派な宝物があったか、何ていうびやかな生地や、何ていう輝いた宝石や——その上どこもかしこも歩くところはすっかり大へんな黄金だったでしょう。 それでもしあのひとの連合いがいいるとおり立派な人だったとしたら、世界中にあのひとほど幸福な者はいないことになっちまうわ。 いえひょっとすると、だんだん馴染むにつれてじょうあいが深まってきたら、その連合いの神様があのひとの方もまた女神にしてしまうかもしれないじゃないの。 全く今だってもうそんな風に振舞ってましたわ。 ええ本当にあのひとったら、声を侍女こしもとにしたり、風でさえ顎で指図したりして、もうもう全然すっかりおうふうに構えて女神さま気取りじゃないの。 それなの馬鹿馬鹿しい、私にあてがわれた良人といったら、第一お父様より年がいってて、おまけにひょうたんより頭はつるつるで、どんな子供よかひよひよしてて、そのうえ家中を鎖だの閂だのでかっては見張りしてるんですもの。」
  23. ともう一人の姉もそれを承けて、「全くうちの人っていったら関節炎レウマチスでもってすっかり腰がまがっちまって、そいだもんで滅多めったに可愛がってさえくれないところへ、しょっちゅう石みたいに固く曲った指をってやるので、いやな臭いだの油だの汚ないきれやひどくくさこうやくなんかで、この通りきゃしゃなこの指をだいなしにしてさ、全く世話女房どころか骨を折り通しの看護女って態たらくだわ。 ともかくあなたはね、こんなことをおとなしく我慢して、というよりまあ馬鹿になったつもりで——思ったまんまを言わせてもらうとよ——しんぼうする気か知れないけれど、だけど私の方は到底そいだけの値打もない女にあんなすばらしい仕合せが行くのを、これ以上我慢して見てられないわ。 だって憶えてるでしょう、どんなに思い上った、どんなにごうまんな様子で私達をあしらって、あんまり身の程も忘れて得意になってをはる拍子に、つい自分のふくれ上った心を見せてしまったってのも。 それからあんなにお宝が沢山あるくせに、私達にはいやいやほんのちょっぴり出してよこしたのも。 そいでじきに私達のいるのがうるさくなると、風に言いつけてさ、私達をん出させてひゅうっと吹き飛ばさせたことだって。
  24. だからさ、もし私があの人をあんな幸福なきょうがいからひきずり落してやれなかったら、もう女ともいえないし、生きてる値打もありはしないわ。 だからもしあなたも、まあそれが当然だけどさ、あんな酷い仕打ちを怒っておいでなら、二人してよく相談しあいましょうよ。 そいでね、私達のこういう企らみは、両親たちにも他の誰にも知らせないで、いえそれどころか一切あの人の安否については(私達の知ってることを)てんで何にも知らせないどきましょうよ。 見たのが今さら残念なようなことを、私達が見ただけでもう十分だわ。 だからましてや親や世間の人達に、あの人がこんなに仕合せにしてるってのを触れまわることがあるものですか。だって誰も他人が知らなけりゃあ、お金持だったって有難くもないでしょう。 いずれいまには私達は召使じゃあなくて、姉さんだってのがわかるでしょうよ、そいで今はまあ、ともかくも良人のところへ、貧乏だってもとにかく結構ちゃんとしてる自分のうちに帰っといて、ゆっくりとあの傲慢たかぶりをこらしめてやるはずをしっかり工夫しといてから、もっと腹をえてまた会うことにしましょう。」
  25. こんな悪だくみを二人の悪い女は好かろうということにめあって、前に貰った立派な贈物みやげをみんな隠してから、髪をふり乱し、まるで悲歎にくれてでも(まるで悲歎にくれてでも 他の読みでは「それが当然なことであるが」)いるように顔をかきむしって、またにせの涙を出して見せました。 そしていきなり両親をこれもまた湧きかえる悲しみの様子すっかり脅しておいて、正心とも思えぬ考えにふくれて家路を辿るそのひまも、けしからぬ奸計わるだくみ、いや、それどころかひとごろしをさえ、罪もない妹に対して企らむのでした。
  26. その頃プシケに向って、まだ顔もしらぬ良人はいつもの夜半の物語に、またこう言って戒めました。 「お前はどんなに大きな危難が身に迫ってるかを知ってるのかえ、運命の神はまだ遠くから小手調べをやってるのだが、もししっかりと今から先へ気を配っとかないと、すぐ身近に押し寄せてくるのだから。 あの義理しらずのおおかみどもはしきりとお前をけしからぬ奸計わるだくみにかけようと企らんでるのだが、それをつづめていうと、つまり私の貌を探り見るように、お前を説得する気なのだ。 だけれど、度々お前にも言ってあるとおり、一度お前が見たらもうそれからは見られなくなるのだからね。
  27. それだから、もし今度あのこの上なく下等な魔女どもが、よこしまな企らみを胸に装ってやって来ても、——来るのは解っているのだからね——けっして一寸でもロをきいてはならないよ。 またもしお前の生来素直な気立てや、やさしい心から、それを我慢できなかったにしろ、断じて良人についてのことは何一つ、耳に入れても答えてもいけない。 それに、もう私たちの家族もいま殖えてくところでもって、このこれまでは子供みたいなお腹の中にも、今では私たちの子供がいるのだからね。 そしてその子は、お前がこの秘密を黙って守りおおせば、天界のものになろうし、もし破ったら人間にされるのだ。」

巻の五(二)

  1. このらせを聞いて、プシケは心もたのしくはなやぎ、神様の御子を設ける仕合せに手をってはしゃぎつつも、またこれから生れてくる愛の証の誉れに気も誇らしく、その母とよばれる嬉しさを有難く思うのでした。 増して行く日の数、過ぎて行く月の数を、心に留めて数えながら、一方また知らない間にいつかこんなに小さな刺されがおなかにこんなに大きな膨らみをさせたのをひどく不思議がっておりました。
  2. けれども、その時にはもうあのやくびょうがみたち、ほんとうにいやらしいあの復讐鬼フリアエどもが、悪蛇の毒気を吐きながら大急ぎで、道ならぬ思いに急き立てられて、船を馳せて来るとこでした。 この時もう一度、わずかのひまの訪れに良人は妻のプシケを、繰り返してこう戒めました。
  3. 「さあ、最後の日、終局の危機(が迫って来た)。 同じ女で、しかも血を頒けながら残忍な敵の奴らが、今こそ武具に身を固め、刃を執って、陣を張りたいを調え、進軍の喇叭らっぱとどろかせてやって来たのだ。 いまこそほこさきをぬき放って、お前の非道な姉達はお前の喉笛を狙ってるのだよ。 なんという恐ろしい戦さだろう、いとしいプシケ、いま私達の上に迫って来てるのはどうかお前や私達を可哀そうだと思って、とうとい沈黙を守り、家や良人やお前やその私らの嬰児ちいさいのをさし迫った破滅の非運から救っておくれ、またあの没義道な女達に——もうお前の姉さんとは、こんなに人の破滅を企らむまで憎みつくし、血縁の義理もふみにじったからには、呼ばせることは到底できないのだから——会ったり、言うことを聞いたりしないでおくれ、彼奴らがいまに魔女シレエンみたいにいわおの上にあがって来て、いやらしい声で岩をとどろかせたってもね。」
  4. それに答えてプシケは、声も絶えだえに泣きじゃくりながら、
  5. 「でもあなた様はもう十分に、私の信実とおしゃべりしないことを確かめて、知ってらっしゃるのではございませんか、今度だっても前の時に負けないくらい、私の心がしっかりしてるのをよくお見せ致しますわ。 ですから、ね、どうぞ、またあの西風ゼフィルスにいつもの役をするように、言って下さいましね。 そしてちっとも見せては下さらないとうといお姿のかわりに、せめて姉達にまた会うことを許して下さいませ。 この肉桂キンナモンの香りのようにかんばしい、ふさふさと四方に垂れたおつむのおぐしにかけて、この柔かくふっくりとした、私のとそっくりなほおにかけて、このなんともしれぬ熱さに燃えているお胸にかけて、またあなた様のお容貌かおだちをせめてこの嬰児ややのなかに認めることもできようとこいねがうほど、切ない心でおすがりする私のつつましい願いをき入れて下さって、どうか姉妹たちと抱きあってよろこぶのをおゆるしになり、あなたに頼りきっているプシケの心を、嬉しさに生き返らせて下さいませ。
  6. もうこれ以上はさらさらに少しもお姿を眼に見たいなどとは思いませんし、今だってもう何も私の邪魔をするものはございませんもの、夜の暗闇でもね。私の光明のあなた様がここにいらっしゃるのですから。」
  7. こうした言葉や優しいほうようにすっかりすかされて、良人は妻の涙を自分のたれがみで拭いてやりながら、そうすることを約束し、程もなく明けてゆく日の光にさきがけて、出てまいりました。
  8. 陰謀徒党なかまの例の二人組の姉達は、両親にさえも顔を見せずに、船から上ると真直ぐに例のいわおへ、大急ぎでやって来ました、そして自分たちを連れてってくれる風の来るのも待たずに、向う見ずにも自分勝手に谷底へ飛び降りるのでした。 でも西風ゼフィルスは御主人のいいつけを忘れないで、気は進まぬながらも、その女達を吹いてゆく微風のふところに受けて、地面へとおろしました。 女たち遠慮会釈もなく、足を揃えて家の中へはいって行き、姉という名をかたって、胸に深く秘めた奸計わるだくみの数々をたのしげな外貌かおつきでかくしながら、自分達のじきを胸に抱きしめて、お世辞たらたらにこう言うのでした。 「プシケちゃん、あなたはもう以前のように子供じゃあなくて、もうすっかりお母さんではないの。 どんなに私達にとっての大きな仕合せがあなたのお腹の中にはいってるでしょう、どんなにあなたはいまに私たちの家中を喜ばしてくれるでしょう。 本当に私達は恵まれてるのね、黄金の(花の)ような赤ちゃんを育ててたのしめるなんて。 それにその子は、当然のことだろうけど、ふたおや容色きりように相応すれば、生れたらきっとクピードーそっくりでしょうから。」
  9. こんな風に情愛を装って、二人は段々に妹の心にとり入って参りました。 プシケはまたすぐさま二人をソーファに休め、湯気の湧き立つ風呂に入れて長旅の疲れを癒させてから、食堂に招び入れ例の素敵な珍味こうを列べて豪勢な御馳走をいたしました。 堅琴に弾けといえば、響き初める、笛にやれといえば、鳴り出す、合唱の群に歌えといえば歌が始まるというわけで、それがみな誰もそこにはいないのに、この上もなく いふしで、聴いている人々の心をたのしませてくれるのでした。 しかしこんな魂もとろけるように気持がいい音楽でもっても、まだその性質たちの悪い女どもの悪心は和ぎ静まるものではなく、かねて謀った奸計わるだくみ係蹄わなへと、言葉巧みに表面うわべをつくろってはいろいろと誘いをかけて、良人はどんな人か、どんなじょうでどんな身分の人か、などと訊ねてゆきました。 そうするとプシケはあんまりにもひとすじなこころから、つい先刻の約束を忘れてしまい、また新規な(前と違った)作り話をして、自分の良人は近隣の国のもので、沢山な資本もとでの商売をしていて、もう中年輩のちらほらとたまに白髪も混ってみえるほどだなどと言ってしまいました。 それでもほんの一寸でそんな話は打ち切りにして、またどっさりと立派な贈物をもたせ、風の車にのせて二人を送り返しました。
  10. けれども姉達は、穏やかな西風ゼフィルスの息吹きにのって、高空を家に帰るみちみちも、お互いにこう語りあうのでした。 「ねえあなた、どうでしょうあの馬鹿娘がとてつもない嘘ばっかしいうことったら。 前にはまだやっと柔かいひげが生えかけたばかりの若者だって言ったくせに、今度は中年で、白髪が白く目だっなんて。 そんなに一寸の間に急に年をとって様子が変っちまう人があるかしら。 これは勿論どっちかにきまってるわよ、あのごくどう娘が嘘ででっちあげたことか、それでなきゃあ自分の良人の様子を知ってないかね。 でもどっちが実際にしても、あのひとを一刻も早くあんな財産しんだいから追い出してやらなきゃ、それにもし良人の顔も見たことがないとすれば、取りも直さずがお婿さんというのは神様でもって、あのひとのお腹の中にもつまり神様をみごもってるってことになるわ。 でも万一にもあいつが神様の子の——なんてまっ平だけど——母親だって呼ばれるようにでもなったら、私は即座にも係蹄かけわなでもって首をくくってやるわ。だから今のうちに親たちのところへ帰って行って、このすじがきのはじまりによくあてはまるような虚言をうまくでっちあげて来ましょうよ。」
  11. こういうわけでかんかんになりながら、二人はろくろく両親に挨拶もせず、夜もおちおち眠らずに過ごしたあげく、朝夙はやくから無茶苦茶になって巖の処へ飛んでゆき、そこから例日いつものように風におぶさって酷い勢いでとび降り、さてがんけんを擦って無理やりに涙を絞り出しといてから、言葉巧みにこうプシケへ持ちかけました。 「まああなたは本当に気楽なのね。 こんなにひどい災難にも気がつかずに幸福らしく納まり返って、自分の危い身の上をてんで気にもしないなんて。 それなのに私達は夜の目も見ずにあなたのことを心配してばっかり、あなたがとんだ目にあいはしないかって、散々胸を痛めてるんですわ。 それがね、これは確かな話なのだけれどね、——もともと私達にはあなたのしあわせ歎き心配は我が事同然なんだから、とても秘してはおけないからいうわけだけど、夜な夜なそっとあなたの寝処へやって来るってのは、大きなうわばみですってさ。 幾重にもとぐろを巻いて恐ろしい毒液じるをもった首筋は血を流したような、底も知れない大きな口を開けっ拡げたおおへびなんだって。あなただってそら、あのアポローンの御神託を覚えてるでしょう、あなたは恐ろしい野獣けもののお嫁さんになる運命だって言った。 それに幾人も、この近処で狩をする人だって、ここらに住んでるたいがいの百姓だって、その大蛇がタ方食物あさりから戻ってくるところや、近くの河瀬を遊いでるとこを見てるのですって。
  12. そいで誰でも言ってますわ、いろいろおいしい御馳走をしてあなたをちやほやしとくのも長いことはあるまいって、そうしてあなたのお腹の子が十分に育ってきたら、一層おいしい果実のはいったところを、一口に食ってしまうだろうって。だから今よ、しっかり思案を決めるのは。 大切なあなたの身の上を心から気遣ってる姉さん達のいうようにして、死ぬとこから逃げ出して危い心配もなく私達と一緒に暮すか、それともそんな恐ろしいけだもののぞうの中に埋められてしまうか。 でもまああなたがね、結局こうした田舎で声を相手にひっそり暮し、世間の目を逃れて恋にふけって、汚らわしい生命にもかかわるような享薬たのしみを、毒蛇相手にやっていくのが嬉しいっていうのだっても、ともかく私達は姉妹きょうだいの情としてするだけの務めはしたわけだから。」
  13. そうするとプシケはあわれにも、単純でやさしい心根から、こんなにも情けない話の恐ろしさに胆をまれてしまい、もののわきまえも見さかいもつかなくなって、途端に良人の戒めも自分のした約束もすっかりちゅうに忘れ果て、底も知れないわざわいの中へと身をつき落すのでした。 体を震わせ、顔は血の気もなくなってあおざめ、ロごもって聞きとりもしにくいほどの声であえぎながら、しどろもどろに姉達に向って言うには、
  14. 「お姉さま、いつでもあなた方は、それがまあ本当のことでしょうけど、情を忘れずに妹の私のことを心配してて下さいますのね。 全くのところそういう話をお聞かせした人達が、偽のことを作って言ったとも考えられませんの。 だって私ったらまだ一度も良人の貌を見たことはありませんし、どこの人かもまるで知らないで、夜中にいうことだけを聴いて、てんで光をいやがって姿も判然はっきりとは現わさない良人のいうままになっているのですもの。 あなた方がきっと何かの野獣だろうっておっしゃるのも当然のことだと思いますわ。 それにしょっちゅう私を脅して姿を見させないようにして、もし物ずきに顔を見たりすると、大変な災難がくるっておどしてばかりいるんですの。 ですからどうか今にでも、こんな危い目にあってる妹をどんな風にだって助けるてだてを見つけて下されるなら、今すぐにも助けて下さいまし。 さもないと今まで折角私のために色々心配してお尽し頂いたものが、後でかまって下さらないため、駄目になってしまうことになりますわ。」
  15. そこで今はもう、城門もあけひろげたままの何のはだかにしてから、妹の心を虜にしちまった心のねじけた女どもは、今度はもう奸計わるだくみ(攻め道具を隠す小屋)のいもかなぐりすて、たばかりごとの剣を抜き放って、何のだてわきえない少女おとめのおそれおののく心中へ攻め入って来るのでした。
  16. とうとう一人が言うことには、「それはもともと私達は血がつながってるんだから、あなたの身の無事安全を計るためには、どんな危難を目の前に見ても、到底たじろいでるわけにはゆきませんわ。 だから私達が何度も何度も考え尽した、命を助かるためにとる道はこれっきりしかないという、その方策てだてをこれから教えてあげましょう。 つまりとても鋭いかみそりをね、それも刃をすべっこくする掌にあててよくいどいてから、いつもあなたが寝る筈の側の寝台の処へ、そっと隠しとくのよ、それから手頃なしょくだいにね、油を一杯入れて、明るい光できらきらするのを、何かのいれもめの蓋の下へ覆い隠しとくのさ、勿論そんな道具立てのことはしっかりと気づかれないようにしといて、そいでそのが魔物がすじの跡をきながらやって来て、いつもの通り寝床に上ってから、長々とのびて正体もなくなった寝入りばなの深い寝息をたて始めたところを、そうっと寝台から脱け出して跣足はだしのまんま爪先だってほんの少しずつあゆみに足を刻みながら、黒白あやめも分らない闇のひとからしわざ燭台をとり出して来るのです。そうしてその光の手引きでもって、あなたのとても素敵な所行しわざうまくやりとげるだてを考えるのよ。 それにはまず先刻さつきの両刃の利器えものをもって、右の手を高く上に揚げといてから、思い切って力一杯に切りつけて、毒蛇の頭をくびつけのところから斬り落すのだわ。 勿論私達だってあなたを援けに来ますとも。 でいつが死んであなたがもう大丈夫ということになったら、すぐさまあなたぐるみお宝物も一緒に持ち帰ってさ、それからあなたのお望み次第に、人間だものね、人間のところへお嫁入りさせたげようって今から待ち兼ねてんですわ。」
  17. こんな文句で、それでなくてもとっくに燃えていた妹の胸をなおせっせとあおり立てといてから、自分達はというと、そんな罪深い所業の現場に居合せるのが恐くて仕方なくなったので、いきなり妹を置き去りにし、例のように空をわたる風におし上げられて巖の上に運ばれるが早いか、逃げ足速くすぐさま船に乗って帰って行くのでした。
  18. さてプシケはただ一人取り残されて——ゆうも恐ろしい復讐女神フリアエたちがくっついて心をき乱してるのでは、一人でもないわけながら——湧き立つ海の波のようただ涙にくれて迷いたゆとう有様に、心はこうと思いめしっかりほぞは固めていてきて実際仕事に手を下す、また考えがぐらついてたじたじとなり、身にふり掛った災難わざわいをさまざまに繰り返しては思い煩うのでした。 に立つかと思うとまた後にのばす、思いきってはまたおぞづく、よもやと疑いまたいきり立ち、はては、何よりもまず肝腎かなめの、同じ体かたちであるものを、悪獣の方は憎みきりつつも、良人としてはまたいとおしく思うのでした。 その間にも夕暮はいつかもう夜となりかかる有様に、あわてふためくうちにも怖ろしいきょうこうたくはせっせと取り調ととのえられます。 夜がくると良人もゃって来て、ひとしきり美神ヴエヌスさきがけいくさがとりかわされるほどもなく、深い眠りに落ちてまいました。
  19. するとプシケは、平生は身体からだも心もかよわい身ながら、残酷な運命にり立てられて今は確固しっかりした力が加わったものか、燭治をとり出しかみそりを手に握った大胆のさまは、女とも見えない変りようです。 しかし差しつけた燭火あかりが、寝間に立てこもる秘密を照らし出すが早いか、いきなり眼に映ったものは何あろう、あらゆる獣類のうちでも一番に優しい、一番に可愛らしい野獣けだもの、とりもなおさず愛の神クピードーその方が、様子の好い神様のいかにも様子よくやすんでおいでのすがたです。 その景色を見ては燭台の明りさえもはしゃいで光を添え、剃刀も大それたことをたくんだ刃の光を悔むように見えました。
  20. けれどもプシケは思いがけぬこの有様に胆をけやして正体もなく、気も絶えだえに色蒼いろあおざめてふるえながらにひざの上にくずおれてしまい、はてはものをとってあるまいことか自分の胸のなか深く突きこもうとまでするのでした。 全くその場にもそうしかねないところを、刃物の方でそんな恐ろしい行いをするが怖さに、かるはずみもとから滑り出て、すっ飛んでしまったわけでした。 もう疲れきって、やっと助かった思いにぐったりとしながら、プシケは神々しいその顔だちの美しさにかず眺め入っては、ほっと息をくばかりです。
  21. 金色のつむりには心地よげな髪の毛が、せ返るほど仙香アンプロシアかおっています。 乳のように白いくびすじからしんほおのあたりには、あちらこちらふさが垂れかかりたまになって、好い工合に止められてるのもあれば、前だの後ろの方だのへ垂らされてるのもある、その様子を見ると、輝くばかりのあんまりな綺羅びやかさに、今は燭台の光さえも影が薄れて見える程です。 空をけるその神様の肩にはみずみずしいふたつの翼が、きらきらする花のよう照りそって、他の部分ところはひっそりとしずまっているのに、一番さきの繊細こまかい柔かなにこだけがかすかにふるえながら、しず心もなく踊り戯れているのでした。 そのほかも一体のはだえは滑らかにつやつやしく、さすが(美の神の)ヴェヌスもこんな御子をお持ちになっては、さぞお得意でおいでだろうと思われるほどです。 寝台の脚先には弓矢とえびらと、この大神様の有難い物の具がおいてあります。
  22. それを飽くことを知らない熱心さで、プシケは好奇心にり立てられるまま、ためつすがめつながめては、自分の良人の武具もののぐに感入しているうち、ふとえびらから一本の矢を取り出して、親指の先でやじりの鋭さをぎんしてみました。 ところが手の先が震えてついひどく圧したもので、かなり深く突き刺してしまい、皮膚はだのおもてに紅い血のしずくが、かわいい露の珠を結びました。 こうしてそれとも知らずにプシケは、われと愛神アモルの愛へ身を愛神クピードーゆくことになったのです。 こうなると層一層と愛神クピードーのこいしさが身にしみり渡り、はては無我夢中でのしかかるようにそのかおを飽かず眺め入って、心のくままやたらに接吻くちづけを繰り返しては、ただ眠りの頃あいだけに気を遣うのでした。
  23. ところが、あまりの嬉しさに心も添わず胸の痛手になやみ迷うそのひまに、先程のとうみょうが、憎たらしい裏切りからかまたはいまわしい嫉妬ねたみ心からか、それともこんなにも優しい姿態おすがたに自分でも手を触れて、同じょうに接吻くちづけをしてみたいとでも思ったのか、燃えているしんのさきから熱い油をひとたらし、その神様の右の肩へと落したのです。 まあ何という大それた、軽はずみな灯明でしょうか、本当にけしからん恋路こいじ使者つかいです、ありとあらゆるほむらの神様御自身を火傷やけどさせるなんて。 そもそもその由来因縁そのものが、誰かある恋人が夜のももっとゆっくり楽しみながら過ごしたいとでも思って、発明したにちがいないのに。
  24. こういうわけで体を焼かれて、約束の秘密がこのように破られて滅茶苦茶になったのを覚ると、神様グピードーはいきなり不仕合せな妻の接吻くちづけや抱擁からけ出て、ものも言わずに飛び去って行くのでした。
  25. それでもすぐとプシケは、立ってゆく良人の右の腓脛ふくらはぎに両手で取りすがり、空高い神のぎょうのあわれにいじらしいつきものといった形で、雲界を突き抜けてゆく折も垂れ下ったまま、今を極みと共々にいてゆくのでしたが、とうとう疲れ果てて地面へおつこちてしまいました。
  26. しかし、いとしく思う神様は地上にしている少女おとめを捨てておいでにならず、すぐ傍らにあるいとすぎの上に降りて、その高い天頂てっぺんから大変に腹立ちのロ調で、こう言いかけなりました。
  27. 「お前は全く何一つわきまえもないのだね、プシケ、私はまあお母様のヴェヌスの命令いいつけもてんでおもわずに、お前をみじめなこの上もなく下らない人間の恋に縛りつけて、とても卑しい結婚をさせてしまう筈だったのを、その代りに自分で好きになって、お前の処へ飛んでってしまったのだ。 だがこれは随分無考えな仕業だった、思えばね、つまり私は世に知らぬ者もない弓使いなのに、われとわが身を自分の矢で傷つけてしまって、そいでお前を自分の妻にしたわけなのだ。 そのあげくがどうかというとお前には野獣けだものと見倣されて、刃でこの頭を斬り落されるところだったのだ、こんなにもお前をいとおしんでる眼をもった頭をね。 こんなことはお前に繰り返し始終気をつけるように言っといたし、親切気から度々戒めておいたじゃないか。 だがあのお前の結構な相談相手の女たちにも、こんなよこしまなことを教えた罰を、早速とあててくれてやるから。 だけどお前の罰ただ私が飛び去ってしまうだけにしといてやるよ。」

巻の五(三)

  1. こう言い終ると翼にのって空高く翔けりってゆきました。
  2. プシケは地面に倒れ伏しつつも、なおまだ眼の届くかぎりは良人の飛ぶさまを追い眺めて、ただ、劇しく泣き悲しみながら心を痛めておりましたが、とうとう翼をかいに良人の姿が久方の空はるかに消えて見えなくなりますと、すぐ近くの流れの岸から真逆さまに身を投げました。 けれども、優しい川は、きっとこの水さえもいつも燃えたたせてしまう神様に義理を立ててのことでしょう、巻添えを恐れて早速少女を渦巻にのせ、そっと怪我をしないように、草花の咲き乱れた河岸へ置くのでした。
  3. ちょうどそのときはからずも野山の神様のパーンが河流のまゆわに近く座を占めて、山ずみの女神エコーわきへ引きつけながら、種々さまざまな声音を歌いかえすことを教えていました。 川岸のすぐそばには山羊たちが放し飼いになって、流れの髪の毛を刈り取っては遊び戯れています。 山羊の足をした神様は、心を傷め気も絶えだえのプシケを傍へ親切に呼び寄せ、いろんなわけからその悲しい話もとうに知っていましたので、やさしい言葉でこう乙女を慰めるのでした。
  4. 「きれいな娘さんは全く田舎者の羊飼だが、年をとるのも長くなったお陰でもって、いろんな目にもあい物の鑑識みわけもつくような次第だけれど、もし私の推量に狂いがなければ——それを賢い人達がとりも直さず占いというのだろうが——お前さんの躊躇ためらいがちなよろよろした歩き方だの、ひどくあおざめた肌の色や始終溜息がちなことや、いや何より第一お前さんのその悲しそうな眼つきから見ても、これはお前さんは恋のあまりに責められていなさるのだ。それゆえ私のいうことをよく聴いて、もう身を投げたりそのほか自分から好んで死ぬようなは、またとなさらぬがよい。 歎いたり悲しんだりするのも止めて、それよりも神様の中でも一番偉い愛の神クピードーに、よくお祈りして願いなさい、でお気に入るよう誠を尽して御神意に叶うがいいだろう。あの方もまだ年若で気の優しい遊び好きな神様だから。」
  5. こう論してくれた牧の神様にも何の言葉も返さず、ただ自分の身をかばまもって下さる御心に手を合せたばかりで、プシケはまた歩み去って行くのでした。 それでも相当なみちのりを疲れた脚を引きずりながら彷徨さまよって参りますと、もう日の暮近く知らない路を通って、ある町につきました。 そこは片方の姉の良人が治めている国でしたので、それに気づくとプシケは自分の来たことを姉さんに報らせてくれるように依頼たのみました。 程もなく御殿に連れ込まれお互いに抱きあってよろしく挨拶を交わした後、訪ねて来たわけを問いただされますと、答えて言うには、
  6. 「あのあなた方が勧めて下さったことを覚えてらっしゃるでしょう。 ほらあの野獣けだものをさ、そいつが良人だって偽の名をだまっていつもやって来るのを、貧欲な口の中へ私を惨めに呑み込んでしまわないうちに両刃の刺刀で殺してしまえって説きつけて下さったこと。 ところがね、みんなして決めといた通りにやって燭台を手引きにその人の貌をのぞいて見ると、まあどうでしょう、いきなり眼に映ったのはとても素晴しいだかいばかりの光景ありさまなんですの、あの女神のヴェヌスの御子様の、つまり愛の神クピードーその方がよ、そうっと静かに寝んでいらっしゃるではありませんか。 だけどそんなにも有難い御様子に胸が迫って、あんまり大きな嬉しさですっかりどうてんしてしまい、どうそれを喜んだものかほうにくれていると、本当にちょうどあいにくとうみょうが燃えている油を沸き立たせて、肩の処へ落したのです。 その痛さに良人はすぐと眠りから目を覚まして、私が刃物や灯火あかりやに身を固めているのを見つけると、言いますには、『お前はその通り恐ろしい罪を企らんだのだから、すぐにも自分の物を持って、この処から出て行け、そうで私は今度はお前の姉さんと——ってあなたの呼名を申しましたの——ちゃんと公然と式を挙げて結婚してやるんだから』というと、早速西風ゼフィルスに言いつけて、自分の屋敷から外へ私を吹きつれてゆかせたのです。」
  7. まだ文句をプシケが言い切りもしないうちに、もうその姉は狂おしい欲望とゆがんだそねみみに駆り立てられて、好い加減なうそっぱちをね上げて人々をだまし、両親が死んだという報らせがあったとか何とか言って、すぐに船へ乗っていきなり例の巖のところへ駆けつけますと、ほかの風が吹いてるのも構わずに、めくらめっぽうな望みに夢中になって、
  8. 「さあ受けて下さい、クピードーさん、あなたにふさわしい奥様の私を、それから西風ゼフィルスや、お前はこの御主人をうけとめてくれ。 」
  9. というが早いか、できるだけ大きくまっしぐらに飛び下りました。 でもいつもの処へは、死んでからでさえ行きつくことはできません。 切岩の上を落ちてゆくうちに手も肢もばらばらになって、あとでは心そうおうに鳥や獣にぞうを裂きついばまれ、恰好かっこうの餌食となるのがその最期でした。
  10. またその次の応報しかえし処罰おしおきも長くはかからなかった、というのは、またもプシケがぶらぶらと歩いてゆくうちに、他の町へつきますと、そこには同じようなあいで、もう一人の姉が住んでいたのです。 そしてこの女も前とことならず、妹のつくりごとに釣られて、悪性にも妹の嫁入り口を横奪りしようと巖のところへ急いで行き、同じような死態しにざまを遂げたのでした。
  11. 一方プシケがしきりと愛の神クビードーを尋ねて国々を巡歴している間に、彼方ではともしの傷の痛さにお母様の奥の間にこやったまましんぎんしていました。 そうするとあの真白なうみねこが——いつも大海の波の上を翼にのっていでいる鳥です——大急ぎで、大洋わだつみのふところ深く潜り込んでゆき、そこで今しがたヴェヌスさまが沐浴ゆあみしたり泳いだりしてる、その傍に陣取って息子さんの火傷やけどのやすことや、傷が大変に痛んで困ってること、生命のほども疑わしくやすんでることなどを言いつけました。 それに、もうどこの国でも人の口のに上ってる噂やさまざまあくを聞けば、ヴェヌスの家の人達はみんなひどい不評判だ、というのは息子の方は山の中で浮気をしてるし、あなた様はまた海にかずいてばかりいて一向世間に出てらっしゃらないので、お蔭さまで今ではもうてんで楽しみというものも、雅びも優しさというものもこの世から姿を消し、みんながみな粗野でざまで野蛮になってしまいまして、さては夫婦の縁結びも友達のつき合いも、子供らを可愛がることさえももうなくなり、ただ無際限な汚辱けがれきたならしいよりいの不気味ないやらしさばかりでございます、などとその饒舌おしゃべりなおまけにずいぶん世話やきな鳥が、息子の評判をめちゃめちゃにして、ヴュヌスの耳へ吹き込んだものです。
  12. そこでヴェヌスはすっかり腹を立てて、急に叫び立てました。
  13. 「じゃあもうあの私の立派な息子はいいひとがあるのだね、さ、言っとくれ、私に心から仕えてくれるのはお前だけなのだから、その女の名は何ていうの。まだほんののままの元服もしてない子供をそそのかすなんて。 ニンフ達の一人かそれとも季節のホラたちか、薬女ムウサ歌舞団コロスのなかまか、またはおじゅうの美のグラテイアたちのうちの女かえ。」
  14. するとそのお喋り鳥が黙ってればいいものを、
  15. 「存じません、奥様、でも私の聞き憶えが本当なら、プシケとかいう名の少女に、死ぬほどれておいでの模様です。」
  16. そこでまあヴェヌスは大変憤いきどって一層声をはり上げて叫びました。
  17. 「プシケをだって! まああの私と容色きりょう争いをして、名前をり合ってる女を、もし本気であの子が好きになったというのなら、きっとあの小僧は私をやりとでも思ったのだろう。 もともと私があいつを{r}紹介{/r(ひきあわ)}せてやったんだからね。」
  18. こう大声に言い立てながら大急ぎで海を出て、すぐさま自分の金色のお居間へ行って、話のとおりに息子が病気で臥ているのを見つけますと、もういきなりその扉ロのところから声を限りに叫び立てるのでした。
  19. 「結構なことだね、本当にこれは、私達の生れ育ちにもお前の名誉にとってもちょうど相応したことだよ。 まず第一お前の親の、いえそれどころか主人の命令いいつけにじってさ、私のかたきを汚れた愛で責め苦しめるどころか、まだこんな年頃の子供のくせに、いつものまま勝手なませたやり方で(あの女を)自分のものにしちまうなんて。お蔭さまで、じゃあ私は自分のかたきを嫁にして我慢するのかえ。 そいでまたこのりょくでなしの女だらしの憎まれっ子が、自分ひとりがちゃんとした後継ぎの生まれでもって、私はもう年のせいで子が出来ないとでも己惚れてるんだろう。 そんならよく憶えといで、お前よりずっと立派な子をまた産んで上げるからね、いえそれもっとお前に恥をかかせてやるように、うちの下僕を一人後継ぎにして、それにお前のもってるつばさだのほのおだの弓や矢までも、私のやったいろんな道具をみんなとり上げてってしまおう。 もともとそれはこんな用に立てるのにったのではないんだから。 それに何一つお前のお父様の財産もちものから、そのごしらえにって貰ったものはないのじゃないか。
  20. 本当に赤ん坊の時からしつけが悪くて、その上に手が速くって、目上の人たちを何度かもしれないほど見さかいなしに酷い目にあわせといて、その上自分の母親までをさ、私をだよ、このごくどう者が、しょっちゅういいさらし者にしてさ、何度も何度も矢を射かけて、それにほんの寡婦やものと思ってだろう、馬鹿にしてばっかり、義理のお父様でも、 あんなとてもお強い偉い武士おさむらいなのに、ちっとも怖がりもしないのだよ。 いえそうに違いないさ、私に嫉妬やきもちを焼かせて虐めようと思って、何度となくあの人をそそのかしてばかりいるじゃないか。 だけど今度こそこんなわるはうんと後悔させてやるからね、そうしてあんな女と一緒になったので、苦いしょっぱい目を見せてあげるよ。 だけど今、笑いものにされたこの始末をどうつけてくれよう、まあどうしてくれたら好いだろう。 どんな仕方でこの詐騙師かたりを仕置きしてやったものか。 いっそ私といつも仲悪の『真摯まじめや』の手助けでも借りてやろうか、これだってここにいる小僧の気随気儘がもとで始終気を悪くさしてるんだけど。 でもあんなきたならしい田舎者の女と、話し合うなんて、まあ真平御免だわ。 そいだけれどもあだを討って気が安まるんなら、どんな人の手を借りたって結構じゃあないか。 すぐあの女に頼むことにしよう、他の誰よりもあの女だけに。 とてもげんじゅうにこの様でなしをお仕置きしてくれるだろうからね、えぴらもといてしまうし矢も取り上げてしまうし、弓も糸を外して松明たいまつけやして、いえ第一あの子の体をさ、もっときつい薬でもってしっかりしょうをつけてくれるだろうよ。 いっそあの子の頭をすっかり剃っちまって、あの翼を刈り取ってでもしてくれたら、そしたら私のつぶされた顔も立つし気持も直るだろう。 私がこの自分の手でもって金色の輝きに染め上げてやった髪やこのふところで仙酒ネクタルの泉に浸してやった翼なんかをね。」
  21. こう言い放つと荒々しくヴェヌス一流の激怒ヒステリーたけり立ちながら家の外へ出てゆきました。 でもすぐとケレースCeresユーノーJunoの二方の女神が向うからやって来て、ヴェヌスのふくれた顔を見ますと、なぜそんな怖いひそみでもって折角きらきらとした瞳の美しさをおしこめてるのかと尋ねました。 そこでヴェヌスが申しますには、
  22. 「丁度好いところへおいででしたのね、煮えくり返ってる私の胸を無理に抑えてしまおうっていうのでしょう。 でもそれより、どうかあなた方のお力のありったけで、あのプシケを探し出して下さいましよ、あの逃げ出してうまく飛び廻ってる女を。 あなた方だって勿論私のところの結構な評判も、お話にもならないあの息子のわざも、よく知ってらっしゃるのでしょうからね。」
  23. そうすると二人の女神たちは、そのてんまつはよく心得ていましたけれど、ヴェヌスのきつい腹立ちをなだめようとして、こう言いました。
  24. 「まあ一体お宅の息子さんはどんな悪いことをなさいましたの、奥様、あなたとしたことがそう断然まつばりとお腹立ちになって、坊ちゃんのお楽しみを攻撃なさったり、その好きな女をどうかして始末してしまおうとお思いになるなんて。 でもねえ、ちょいと、坊ちゃんが綺麗な娘さんにうっかり笑いかけたからって、それがそう大それたことかしら。 それにあの子だって男の子だし、いい若者だってのを御存じなんでしょう、もう何歳になるかってのも忘れておいでじゃないでしょうに。 それともいくつ歳をとって結構小さく見えるからって、しょっちゅう子供並みにしてなけりゃいけないのかしら。 そうしといてお母さんのあなたが、しかもその上分別ざかりのひとが、いつまでも自分の子のあそびごとに眼を皿にしておせっかいをやいたり、ほうらつとがめ立てたり、情事をせきとめたりして、御自分の手練や御自分の魅力ってものを様子のいい息子さんのところでは、こきおろしてるのじゃないの。 だけど、あなたが自分の家では色恋沙汰いろこいをそれこそ厳重にせき止めといて、女ごころの気よわさの諸人みんなに許された娯楽たのしみ場にも入れさせないなら、神様だって人間だって、誰一人としてあんたがやたらに世間中へ愛情なさけの種子をまいてあるくのを放っとくものですか。」
  25. こう女神たちは、本人はそこにいないながら、矢の勢いを畏れて、愛の神クビードーに都合のいい弁護をしてやって機嫌をとるのでしたが、ヴェヌスの方は、ひどい目にあったのをこういろみものにされてしまったので腹を立て、二人を向うへやりすごしておいてから、足もせわしくまた来た道を海原の方へと向ってまいりました。

巻の六(一)

巻の六

  1. 話変ってプシケはあちらこちらと駆け回めぐっては、夜も昼も良人を探し尋ねて心のやすむひまもなく、ただひたすらにそのいきどりを、よし妻としての優しい言葉でなだめることはもうかなわぬにしても、せめてはたしめの祈願でもって和らげたいものといやましに願い求めるのでした。 そのうち高い山の巖に何かお神殿のあるのをみとめますと、「おや、あそこにうちの主人さまがいらっしゃらないとも限るまい」といって、すぐとにせわしく足運んで参りました。 それもあんまりはげしい骨りにもうすっかりと疲れきってるのを、ただ希望のぞみと愛のまごころに駆り立てられていくのでした。 そしていきおいこんで、一心に高い尾根を超え登り、とうとう神座のすぐ傍まで辿りついて見ますと、そこには穀物のかりがうず高く積んだり、環形にまげて束ねたりしてあって、大麦の穂の束などもおいてあり、そのほかかまだとか刈入れ仕事の道具一式が、それもみんなあちこち散らばったままぞうにごたごたおいてあり、暑い日盛りにでも百姓がてんでに投げ出していったようなふうでした。 それをプシケはいちいち丁寧にわけて、ちゃんとそれぞれ片づけてしまいました、というのは、どんなお神殿にしろ自分は等閑なおざりにしないで、すべての神様の慈悲をねがい求めなければならないと考えたからです。
  2. ちょうどこうやって心をこめてせっせとお手伝いをしてるところへ情け深いケレースがおいでになり、少女をお認めになると、すぐさま大きな声で呼びかけました。
  3. 「まあ、お前は可哀そうなプシケじゃないの。 ヴェヌスさまがね、もうかんかんになって世界中をお前の行方ゆくえをしきりに探しまわっていなさるのだよ、そいでお前に一番ひどいおしおきをして、あの方のお力でできるだけの復讐しかえしをしてやろうっていきり立っておいでなの。 それなのにお前は私のうちの仕事の世話をしてくれて、自分の身の無事安全にも関係かかわりのないことを考えているのだわねえ。」
  4. そこでプシケはそのあしもとに身を投げ伏して、ゆたかな涙で女神のおみあしを潤おし、大地を自分の髪の毛で拭き払いながら、いろいろと祈願をこめてひたすらお助けをお願いするのでした。 「五穀をみのらせるその右の御手におすがりして、穫入れのたのしい祭式に、あのエレウシスの聖い籠の、他言を許さぬ秘儀にかけて、また御家来のりゅうたちの翼をもった小車に、またシチリアのくにうねみぞや(御娘のプロセルビナを)連れ去ったあの車、その方を閉じこめた大地、光を見ない御婚儀のための御こうや、また御娘をお見つけになってからの光に満ちた御かえり、またそのほかアッティカにあるエレウシスのお宮が、沈黙しじまのうちにたてこめることごとにかけて、どうかこの、あなた様におすがりいたしますプシケの哀れなこころにお力をお添え下さいませ。 どうかあの尊い高い女神さまのはげしいお憤りが、時のたつにつれ和らいでまいりますまで、いえそれまでならずとも、せめて長いかんなんにつきはてた私の力が、しばらくでも休まって落ちつくまでなり、そこにある穂の積み重ねの中に、二三日の間でも身をかくさせて下さいませ。」
  5. それに応えてケレースがいうには、
  6. 「本当にお前の涙ながらの願いには胸をうたれるし、またたすけてもあげたいのだけど、私の姉妹きようだいの機嫌を悪くするのはねえ、一寸困ると思うの。 それにずっと昔からあの人とは仲よく手を結びあってきたのだし、そのうえ立派なひとなのだものねえ。 そんなわけだからすぐとこの家から出ていっとくれ、そいで私がつかまえて因人めしうどにしなかったのをせいぜいいいことと考えておくれよ。」
  7. プシケは自分の思いがけとすっかり反対に、追い出しを食って(いまは)二重の悲しみに打ちひしがれ、とぼとまたもとの道をひろって参りますうち、低まの谿たにぐらい木立のあいだに、こうしょうの腕をつくしたお社があるのを見つけました。 どんなことでも、たとえ多分は無駄と考えてもプシケは助かる希望のぞみへの道はすべて残さずに試してみよう、どんな神様のお慈悲にもおすがりしょうと思っていますので、その聖い御がど口へと近寄って参りまして、見ると高価な献げ物だと金色の文字を縫いつけた布だのが、木の枝やかど口の柱にかけてあって、それにあるお礼のことわけ(由来)を見ても奉納を受けさせられた女神様のお名前がすぐとさとり知られるのでした。 そこで膝を折りまげ、手をさしのべてまだ温かい神壇にとりすがりつつ、まず涙をおし拭い、こうプシケはおいのり申し上げるのでした。
  8. 「あやに尊いユッピテルさまの御同胞はらから、またお妃のユーノーさま、よしあなた様がサモスの島の神さびたお社においでになろうと――そこだけが独りあなた様のお生れと御いとけないよびごえと御養育との光栄に誇っておりますその島に――あるいは高いカルタゴの恵みゆたかなさとゆきなさいましょうと――あなた様を獅子にって天界からお降りになった乙女としてお崇めしているそのまちに――それともイナコスの堤のほとりアルゴスの世に聞えた城壁とりでをお治めになりましょうと――あなた様をとうに雷神いかずちのお妃として、女神らの女王すめらぎとして讃えまつるその町を――、東の国がこぞって『結びの御神』と尊敬し、西の国はみな『光の神』とお讃え申す御神様、どうかこの私のなんじゅうのきわみのときに、また『安らぎのユーノー』さまとして、胸にあまるかんなんしんに疲れはてたこの身を、さし迫る危難の恐れからお救け出し下さいませ。 ことさらうけたまわっているところでは、身の危い妊婦みもちおんなには手ずからいち早くお力をお借し下さるとも申しますゆえ。」
  9. こういう風に歎願しているその眼の前に、たちまちユーノーはこうごうしいあまつ神の気高さをのこりなく示現しながら、御姿を見せると即ち仰せられるには、
  10. 「本当にしょうしんしょうめいもお前の願いを肯いてやりたいとは思うのだけど、ヴェヌスさまの心に逆ってはねえ。 あの女は私の嫁に当るうえ、始終自分の娘のように可愛がってもきたのだから、助けてあげてはどうにも義理がすまないのですよ。 それにまた法律でもねえ、他家よそ下婢はしためが逃げたのを主人の同意なしに受け入れてはならないことになってるので、駄目なのだからねえ。」
  11. 今度もまたかように、仕合せの船が難破してしまったことは、もう羽根の生えた良人を探し求める力も出ないほどプシケをおじづかせ、今はもう身の助かるすべも望みも失せ果てて、こうひとり思案に沈むのでした。
  12. 「今となってはこの上私の身の不仕合せを救ってくれるどんな方法てだてが尋ね求められよう、女神様たちさえ、それも御心はありながら、私のためにロをきいて下さることもお出来にならないというのに。 さてこれからもこんなにどこからどこまで係蹄わなをかけられていて、何方どちらへまあ歩みを向けてゆくことができょう、またどの屋根に隠れやみに潜んで、広大なヴェヌスの避けるすべもない御眼を逃れおおせよう。 そんならばいっそのこと勇気を振い起してあだな望みを雄々しく捨て、自分からさきに御主人(ヴェヌスのこと)へ身をまかせて、むしろ遅まきながら身を低くして烈しいお怒りの勢いを和げたらどうだろう。 それにその上もしかすると、長い間さがし尋ねている人にも、お母様のお邸であうことができないとも限らないではないの。」
  13. こうして末の成行きも疑わしい服従、いえそれどころかほとんどわが身の破滅をさえ心に覚悟しながら、プシケはこれからさきどうお懇願ねがいをはじめたらよいかと思案するのでした。
  14. 一方ヴェヌスは地上をさがしまわっても仕方がないとあきらめて、天へ向って出かけました。 たくをいいつけたくるまは、以前金工の神様ヴルカーヌスが巧妙なわざをつくし、心をこめてちりばみあげて、ヴェヌスの初の嫁入りに花嫁への贈物とてよこしたものゆえ、精巧なすかし彫の美しさといい、ついをおしまず黄金そのものをふんだんに使ったところといい、他に類もないとうとさです。 (その輓子ひきてには)御主人の女神めがみ臥床がしょうを取り巻いてをつくる沢山の鳩のうちから、四羽の真白なかいばとが足どりも晴ればれしく進みよって、彩ったくびをふりふりたまちりばめたながえに収まり、女神様がお乗り込みになると忽ち御輦を羽に(のせて)楽しげに舞い上って行きます。 その御輦を取り巻いて声々にさえずりあそぶのはすずめやその他いろいろな好い歌声の鳥たちで、調べも妙に節おもしろく歌い立てながら、女神様の御入来を(ルクレーティウスの冒頭より来た叙述ならん)あめつちに告げ知らせるのでした。
  15. と雲は割れて引き退り、天は御娘のためにずっとうち開けて、はるかな高ぞらは喜悦よろこびにあふれて女神を迎えます。 みちに遇うわし貪慾どんよくたかも、広大なヴェヌスのほがらかなけんぞくたちにはちっとも怖くありません。
  16. 女神はそれからまっすぐとユッピテルの大宮しきにおみあしを向けて、意気高々と、あの声の大きな神様のメルクリウスを是非とも手助けに貸して頂きたいとお願いになりました。 ユッピテルもこれに漆黒の眉をおうなずきになります、とすぐさまヴェヌスはメルクリウスを一しょに伴れ、大得意で天から降ってみえ、メルクリウスに意気込んで言いたてるのでした。
  17. 「ねえアルカデイアの兄さま、あなただってよく御存じだわねえ、あなたの姉妹のヴェヌスはあなたが傍についててくれなけりゃ、いつだって何もしたことはないでしょう。 そいでまたどんなに長いこと私が、あの姿を隠したじょ(のプシケ)を探し出せないでいるかってのも、もちろん知らないはずがないわ。 だからこうして貰いさえすればもう文句はないんだけどね、あなたが世界中へよびかけて、見つけた人に御褒美を出すって布令を廻して下されば。 それだから大急ぎで私のお頼みする通りに、一目でにんそうが解るようじるしをはっきり書き出して、万一誰かが掟に背いて罪を犯しかくまっていた場合、知らなかったなどと逃げロ上をいえないようにして下さいな。」
  18. こう言いながらメルクリウスの眼の前にプシケの名だのその他いろんなことが記してある貼子びらを差し出し、話がつくとすぐさまお宅へお帰りになりました。
  19. メルクリウスも頼まれた仕事をうっちゃってはおきませんでした。 そいで隈なく世界中の人間を訪ねてかけ廻り、指図をうけたお布令の役をこんな風にして果しました。
  20. 「もし誰にもせよヴェヌス神の侍婢こしもとで名はプシケというお尋ね者の王女を、逃亡より引き戻すかまたはその隠れ家を指し示し得る者は、ムルキアの円柱の後ろ側の、このびらの布令人メルクリウスの許に出頭すべし。 通告の褒美としてその者にはヴェヌスさま御ロずから七つの快いロづけと、もう一つそれはそれはおいしいのを、心もとろけるお舌押しでなし下される。」
  21. こんな風にメルクリウスが言って歩くと、その素晴しい褒美をせしめたさの一心が、ありとあらゆる人間どもをお互いにせり合い競い合せるという有様で、このてんまつこそ何よりも一とうプシケの胸から、これ以上ほんの一寸でも躊躇しりごみしようという気持をなくさせてしまった理由でした。 こんな次第で御主人のかどぐちへさしよって参りますところへ、やって来たのはヴェヌスの召使の一人で、『慣例しきたり』という女です。 みるといきなり、ありったけの大声で叫びたてるには、
  22. 「ふん、この性悪のはしたものが、でもとうとう自分の御主人持ちだってのが解り始めたのかね。 それとも他のことだってお前さんのやり方は無鉄砲なんだから、それに相応ふさわして今度も知らない顔をするつもりなんだろう、お前さんを尋ねだすんで私達がどんなに苦労させられてきたってのもさ。 でもこれでいいのよ、誰というより私の手にとっ捕まったからには、もう地獄のはずめにひっ摑まえたも同然、これから早速今までの増長慢のこらしめをうんとみせてやってくれるからね」
  23. こういうと乱暴にもプシケの髪の毛に手を突き込んで、何の抵抗てむかいもしないでるのを引きずって行き、ヴェヌスの殿てんにつれ込んで御前へと引っ立てて参りました。 その様子を眺めるとヴェヌスはいきなり大声にお腹を抱えて笑い立てのは、人がひどく腹を立てるといつもよくやるやつです。 そうして頭をふりたてたり右の耳をさすったりしながら申しますには、
  24. 「でもとうとう自分のじゅとめへ挨拶をしにおいでなすったってわけだね。 それともお前さんの手にかかって命も危ない御亭主にあいに来たのかえ。 だがまあ気を大きくもっといで、これから立派なお嫁さんに相応な款待もてなしを十分にしてあげるからね。」
  25. それからまたつづけて、
  26. 「どこにいるのだえ、侍女の『心配』と『悲しみ』とは、」
  27. と二人の者を呼び寄せ人プシケを渡してめさいなませました。 二人はまた主人の指図通りに、プシケを可哀そうに鞭で打ったりその他いろんな責め道具でさんざん虐めたあげく、また御主人の前に連れて戻りました。 そうするとヴェヌスは今度も笑い立てておいてから言うには、
  28. 「ごらんよ、こんな大きなおなかをして私の気をひいて慈悲心をおこさせようっていうのだろう、結構な子供を産んで私を幸福なお祖母さんにしてくれるんだからね。 本当に私は仕合せ者さ、まだこんなに若い女ざかりにお祖母さんなんて呼ばれてさ、しかもなはした女の生んだ子を、このヴェヌスの孫だって世間にうたわせるなんて。 だけどいくら私が馬鹿でももう子供なんてのはひらだね、第一この結婚はまるで身分違いだし、その上田舎家で証人もなしに、父親の同意もなくてされたのだから正式なものとは認められやしないさ。 またそいだから万が一子を産むのを見逃しとくにしても、生まれた子供は私生児ということになるのだよ。」
  29. こう言い終るとプシケにとびかかって、ものをびりびりに引き裂き、髪をふりほごし、頭をゆすぶったりして、さんざんにちょうちゃくしたあげく、小麦や大麦や、栗につぶ小豆あずきえんどうそらまめなどを取り寄せ、ごちゃごちゃにかきまわし一山に混ぜ合せて積んでおいて、こう言いつけるのでした。
  30. 「お前みたいな恰好かっこうな召使は、どう考えたって他のことでは駄目さ、ただ精出してお仕えでもして、好きな人の気に入るようにするほかはないだろう。 それだからいまお前さんの働きをこれから試してあげるからね。 そこにまぜて置いてあるいろんな種子の寄せあつめを選り分けておくれ、一粒ずっちゃんと種類別にしておいてね、この夕方までに得心がいくようしっかりと片をつけとくのだよ。」
  31. こんな風に山のような雑穀ざっこくの積み重ねをおしつけといて、自分は御婚礼の饗宴もてなしに出かけてしまいましたが、プシケはその乱雑な手のつけようもない(穀類の)山に手を出そうともせず、ただ茫然と言いつけられた仕事の大きさにたまげ、物もいわずに呆れているばかりでした。 するとそこへ小さなありが出て参りました。 あのちっぽけな、野原の住まい手です。 こんな骨の折れる大仕事の難かしさを見てとると、偉い神様クビードーのお連合いを気の毒がり、かつはまたしゅとの無慈悲さに腹をたてて、せっせと駆け廻ってはその辺に住むありたちの軍勢をすっかり呼び集めて頼みますには、
  32. 「お気の毒じゃあないか、ねえ万物を産む大地のすばしこい養い子たち、お気の毒だから、この愛の神アモルの奥方の綺麗な娘さんが、難儀してるのをすぐさま大急ぎで助けてあげとくれよ。」
  33. するとどんどん一団また一団と六足ぜいの波は次々におしかけて来ます、そして一生懸命になってめいめいが一粒ずつ山と積んだ穀物をすっかり始末し、それぞれ別に種類分けにいたしますと、さっさと姿を消してしまいました。
  34. 夜がくると婚礼の宴からヴェヌスが帰ってまいりました、お酒を十分にきこしめし、安息香バルサモしきりとにおわせ、体じゅうには照り咲いた薔薇の花を巻きつけております、言いつけた仕事がびっくりするほど立派に士尽しおおされてるのを見ますと、
  35. 「これはお前のじゃないね、本当に悪い女だよ、お前の手でやった仕事ではなくて、あれの仕業に違いない、自分でひどい目を見るばかりか、その人にまでひどい目をみせようってお前がお気に入りになった人のさ。」
  36. そういうと粗いパンのきれり出して、寝間にはいってしまいました。 この間じゅう愛の神クピードーは、たった一人で御殿の奥に、一の寝部屋に閉じこめられたっきり、厳重に見張りをされていました、気儘気随にやって傷を重くしてしまったり、自分の好きひとと一緒になったりしないようにというわけです。 こんな次第で同じ屋根の下ながらこの好いた同士は引き離されて別々に、みじめな夜を明かしたのでした。
  37. しかし払暁あけがたがほんのいま馬車くるまを空に乗りだすとヴェヌスはプシケを呼びよせてこう言いつけました。

巻の六(二)

  1. 「ほらあすこに森が見えるだろう、ずっと流れてゆくあの河や長い堤に沿ってる森さ。 (その中にある水溜りの奥底は)近くの泉に通じてるのだけど、その辺りには金色のかわごろもにかがやいた羊たちが見張りもなしにいつも草を食べて遊んでいるのだよ。 その立派な羊の毛皮から毛をひとふさどうにでもして大至急私にとって来て欲しいのだがねえ。」
  2. プシケはただただとすすんで出かけてまいりました。 その命令いいつけを果すためというより、河沿いのやすらいわおの上から身を投げていろいろな炎難からやすらいを得ようというつもりでもって。 ところがその河の中からは、愉しい音楽の育ての親の緑のあしが、やさしいそよ風にしずかな音をたてながら、天上からの息吹きを受けてか、こういって歌いさとしてくれるのでした。
  3. 「プシケさん、あなたはいろんな苦労に心を痛めても、今ここで世にも憐れな最期を遂げて、このきよらかな水をけがしてはいけません。 それからまた決してこんな時間にあの恐ろしい羊どもの処へ近奇っては駄目です。 というのは(いまは)羊たちが照りさかる太陽から炎熱を受けて、いつも酷く荒れ狂うので、鋭い角や石のような額でついたり、そのうえ時には毒を持った口でんだりして、人間を死なせてしまうほど荒れ廻ることさえあるのです。 けれども真昼時の日がようやく熱気を収めて、羊どもがおだやかな河原にひっそりとしずまったころおいには、あそこにある背の高いすずかけの木の下に――その木は私同様同じ流れ(の水)を飲んでいますが――その下にそうっと身を隠すことができましょう。 そいで乱暴がいで羊どもの張りつめた気もたるんできたら、早速すぐわきの木立のえだをゆすぶれば、金色の羊の毛が見つかるでしょう、そのまがった幹の方々にくっついておりますから。」
  4. こう言って素直な気の優しい草の葉は、悩みつかれたプシケに身を護る道を教えてくれました。 その言葉に耳を傾け心に有難いことを言ってくれたと思って、プシケは一切の始終をみ込んで、(ふとこくは)手を控えておりましたが、やがてすっかり葦のいったとおりにして、容易にそこへ忍びこみ、柔かな黄金の房をふところ一杯にぬすみとって、ヴェヌスのところへ持ち帰りました。 けれどもこの二番目の危い仕事(を果したこと)も、てんで御主人の気にはいらず、プシケの働きを認めようとはしてくれなくて、やっぱり眉をしかめ苦笑いを浮かべながら、ヴェヌスはこう言うのでした。
  5. 「今度のことだって、誰がそっと蔭でたきつけたのか私にはよくわかっているよ。 だけど今度こそ私が本式に厳重な試験をしてあげるからね、本当にしっかりしたしょうなみなみでない分別をお前がもってるかどうかをさ。 そらあすこのとても高い巖の上にしびえ立って険しい山のいただきが見えだろう、あそこから真黒な泉のゆうずんだ波が流れおちて、近くの谷に閉じかこまれてふちとなり、黄泉ステュクスの沼地に注ぎ込んだそのはては、叫喚の河コーキユートスの荒い流れにあわさるのだけど、その泉の天頂てっぺんの、水が湧き出る奥底から、冷たいほどの水を一杯私に大急ぎでね、このがめへ汲んで来ておくれ。」
  6. こういうと水晶をりぬいたいれものを、その上にももっと重い仕置きで脅しながらプシケに手渡しました。
  7. そこで少女は次はせっせと足の運びも速やかに、山の一番上の高みへと向って参りました、今度こそその処でこの上もなく惨めな自分の命に決著けっちゃくをつけられようと思ってです。 しかし今いった峰のふもとの場処にやって来て見ますと、このほうもない大仕事の、生命にもかかわるほどな難かしさが解って参りました。 それはそれはおおきな岩がしびえていて、突兀とっこつとして滑り易く近よることなど思いもよらず、両側から迫りあうその石のあぎとからは身の毛もよだつような恐ろしい噴流いずみはしり出て、雪崩なだれている洞穴のさけから湧き出すとそのまま滝になってがけを流れ落ち、行く道にえぐれつけた狭い水路にかくされたまま、すぐ近くの深い谿たにあいへ人目もしらず落ち込んでいるのでした。 右にも左の方にもうろになった切岩からは恐ろしい竜が這い出し……長い頸をもち上げ、そのまなこはまばたきもせずにしっかりと見張りをつづけ、たえず日光をみつめるその瞳には少しの間のたゆみさえありません。
  8. しかもその上にその水までが声をたてて自分自身をふせぎ守り、「あっちへ行け」とか「何をする、よく見ろ」とか「何をやるのだ、気をつけろ」とか「逃げろ」とか、それからまた「そら死ぬぞ」などと呼び立てるのです。 この有様を見るプシケは仕事などとても思いもよらず、自身が石にでもってしまったかのように、体はそこにあっても眼や耳の感覚はぼうっと脱けてなくなり、抜きさしもならぬこの難業の重荷にすっかり圧倒されてしまって、最後の慰めという涙さえも出ない始末でした。
  9. 有難い神様の御せつの、あらたかなまなこにこの罪もない心の歎きがとまらないというはずはありません。 尊いユッピテル大神様のあの気だかい鳥が不意に、両方の翼をはり拡げて飛んで参りました、あのたけしい愛の神クビードーす。 その昔愛の神クビードーの誘いによってブリュギアの少年をユッピテルのさかずき持ちにと天へさらってってあげたことを忘れずに、今度も丁度おりのよい手助けをして、奥様が困っておいでの時にその夫神おつれあい愛の神クビードー)のこころを慰めまっろうと、てり輝くはるかな穹窿あおぞらのみちを離れ、少女の眼の前にかけけて来てこう言葉をかけるのでした。
  10. 「まああなたは、全く単純ひとすじでもってこんな事柄をてんでわきまえてもいないのに、この世にも聖いとひとしくまた情け容赦もない泉の水を、一たらしでもれようと、いえそれどころか手をえることさえもかなおうと想っておいでなのですか。 神々もまたユッピテルさま御自身でさえあの黄泉ステュクスの流れは畏れはばかりになるってことは、ともかく話でなりと知っておいででしょう、その上丁度あなた方が神明にかけて誓いを立てるように、神々は黄泉ステュクスの尊厳にかけていつも誓いをなさるということも。 だからさあそのがめをおよこしなさい。」
  11. こういうとたちまちそれを奪って水をたしにと急いで飛び立ち、巨大おおきな翼をゆらゆらと揺りはためかせて、巨竜の恐しい歯のあぎとみつまたに裂けて燃えたつ舌の間を、右へ左へとかじをとりながら、いやがって怪我をしないうちにあちらへ行けと脅しつける水をとうとう汲んで参りました、ヴェヌスさまの命令いいつけで取りに来たので、自分はその神様の御用をしているのだなどといったため、いくぶんかそこへ容易たやすく寄りつく道も開けたところでもって波んで来たのです。 こんな次第で、一杯になったかめを大喜びでプシケは受け取り、急いでヴェヌスのところへと持って参りました。
  12. それでもまだこんなにしてさえも猛り立つ女神のこころを和げることはかないません。 そして前よりも一層ひどい厳しいお仕置きで脅しつけながら、命の縮むほど恐ろしい薄笑いを浮かべ、プシケを呼んで女神はこうおっしゃいました。
  13. 「実際お前さんはどうも大した魔法使だとみえるね、全く気味が悪いよ、私がどんな事を言いつけてもどんどんやってくるんだからねえ。だけどもう一つ、いい子だからこの仕事を提非ともしてきとくれな。ここにあるこのばこをもって、」
  14. とそれを渡して、
  15. 「すぐ、めいまで、冥王オルクス御自身がおいでの亡者のすみへと行って来とくれ、そいで(お妃の)プロセルピナにはこを渡してこういうのだよ、――ヴェヌスさまの御依頼たのみには、あなた様の好い容色きりょうをほんのちょっぴり、ほんの一日の間保つだけなりと、けて下さいますよう。 前からの御自身の分は、御子息の病気の看護みとりですっかりすり減らし、使い果してしまいましたので――ってね。 でもぐずぐずしないでさっさと帰って来るのだよ。私は是が非でもそれをつけて、神様たちの観劇おしばいに出かけなけりゃならないのだからね。」
  16. そこでプシケは、今度こそいよいよ自分の運もこれまでと覚悟し、あらゆる表面うわべのつくろいもかなぐりすてて、自分が無理やりにも最後のどたん場へとき立てられているのをはっきりと理解いたしました。 それも無理からぬこと、自分の足でこちらから冥界タルタロスの亡者の郷土くにへ出かけて行かなければならないのですから。 そこでプシケも今はもう躊躇ためらうこともなく、あるとりわけて高い塔の処へ赴き、そこから真逆さまに身を投げようといたしました、こうしたらばきっと冥界じごくへまっとうに、一とう結構な仕方で降りて行けようと考えたからです。 ところがその塔が急に物を言いだして、
  17. 「まああなたは」と申しました、「可哀そうに、なぜ身を投げて死んじまおうなんてなさるんです。 どうして一番お終いの難題のこの仕事で、考えもなくたれてしまうんです。 一度この呼吸いきがあなたの身体から絶えたらば、それこそ真直ぐに冥界タルタロスの底にゆけはしょうけれど、どんなことがあったってそこからまた帰ってはこれやしません。 (それよりもあの)
  18. アカイアの世にしられた町、ラケダイモーンへはそう程遠くないのですから、その近処でおうかんを離れた片田舎に、タイナロスというところを尋ねていらっしゃい。 そこには閻王ディースの息抜き穴というのがあって、その大きく開いたぐちからは、人も通わぬ荒れ路がずっと見えていて、そのしきいを超さえすれば、すぐとさっきの路にはいるわけですが、そこからはもう真直ぐな道筋で、例のオルクス王の御殿へ行けますから。 でもそこまでのその暗闇をからで進んでっては駄目です、ちゃんとみつしゅでこね固めた大麦粉のお餅を両手に持って、そのうえロのなかにですよ、銅貨を二枚くわえて行くのです。 それでこの死にそうなこわい道を大略あらましゆきおえるころになると、向うからたきぎを積んだ跛足びっこのろばが同じく跛足びっこぎょしゃにひかれて来るのに遇いますが、その人があなたに背中の荷から落っこちる小枝をちょっと拾ってくれとたのんでも、あなたは一こともものを言わずに黙って通り過ぎるのです。 それから程もなくさんの河へしるきますと、その河守のカローンがすぐと渡し賃を請求します。 つまりそいで往来も(亡)者を皮のはしけでもってむこうぎしに渡してやるのです、亡者の国でもやっぱり慾というものはなくならないで、カローンでもあの閻王ディース様でさえも、何にも只ではしてくれないのですから。 憐れな死んでゆく人たちは是非とも路用を貰ってかないとならないので、もしひょっとしてふところに銅銭がなかったら大変、もうそのままでは息を引き取らせて貰えません。
  19. この薄汚いじじさんにはしけちんとして、持ってゆく二枚のお銭の片方をやるわけですが、それもカローンが自分の手であなたの口から直接じかに取るようにおさせなさい。 そいからまたこのゆるやか流れを渡ってゆくときに、その川面に浮いてる年寄りの亡者が、くされた手をさし出して船の中へ引き上げてくれと頼むでしょうが、あなたはけっして道に外れた憐れみに打ち負かされて(引き上げてやって)はいけません。
  20. 河を渡ってすこし行くと機織りの婆さんどもが布を織ってて、ちょっと手を貸してくれと頼みましょうが、しかしこれにも手をえるのは間違ったことです。 つまりこれだとか他のいろんな事柄はもともと皆、ヴェヌスの奸計わるだくみから出ているもので、あなたの手から一つなりと麦粉餅をおっことさせようというたくみなのですからね。 それにそんな詰らない麦粉餅などなくなっても、大したことはないと思っててはいけません、一つでもなくなしたら最後もうこの世の光はそれっきり見られなくなるのです。 というのはとても大きな、ずいぶん大きい首を三つももった恐ろしい猛犬がいて、雷のようなうなり声で亡者たちに吠えつきますが、犬も死んだ人にはもう何の害も加えようがないのでただおどすばかり、プロセルビナきさい)の陰気なお宮のそのいりぐちの前にしょっちゅう不寝るの番をして、閻王ディース空虚うつろな御殿を守っているのです。 やつにお餅を一つだけ餌にやって手なずけると、楽にそこを通り抜けられて、そうすればすぐさまプロセルビナのおいでの場処にはいってゆけましょう。 お妃はあなたを愛想よく親切にもてなして、気楽に腰をかけて立派な御馳走を食べるように勧めてくれましょうが、あなたは座るのも地面にして、食物も並の粗いパンをもらって食べるようにするのですよ。 そうしといてから、わざわざ来た理由をお話して、お妃のよこしたものを受け取り、また帰ってくるという次第で、犬のたけるのは残りのお餅でなだめすかし、それからどんよくな船頭にはまだロのなかにとっといてある(はずの)おあしをやって、その船で河を渡ったらまた前に通った道筋を辿って行けば、またあの天上のほしくず集団あつまり(が見えるところ)へ戻ってこれましょう。 ただ何よりもとりわけて気をつけなければならないのは、けっしてどんなことがあっても手に持っているそのばこを開けようとしたり、覗いて見たりしてはいけません、どうあろうともその中にかくされている神々しい美しさの秘宝おたからものを、物ずきになどと思ってはなりません。」
  21. こうその智慧のひろい塔はこまごまと親切に教え訓してくれました。 それでプシケはゆうあらせずタイナロスへ出かけ、(いわれたように)ちゃんとそのおあしだの麦粉餅だのを持って冥途への路を馳け下り、痩せほうけたろばのぎょしゃの脇を黙ったまま通りすごし、河のはしけちんを船頭に払って、そこに浮いている亡者の願いごとも構いつけず、機織女たちのずるっこい頼みにも相手にならないで、例の犬の身のすくむように荒れ狂うのはお餅の御馳走で手なずけておいて、プロセルビナの御殿へとはいりこみました。 そして女主人あるじが座り心地のよい椅子やそれはそれは見事なお食事をすすめてくれても辞退して、そのあしもとにつつましく座り並パンに満足して、ヴェヌスの用むきをお伝えしました。 するとすぐさま小筐に何か容れて固く蓋をして渡してくれたので、それを持ってもう一つのお餅でだまして吠える犬のロを封じ、残りのおあしを船頭に払ってやって、きよりもずっと元気よくいそいそとめいから立ち戻ってまいりました。
  22. このようにしてまたもとのあかあかとした日の光を仰ぎ、手を合せて伏し拝んでみると、今までは早くいいつけられた勤めを果そうとのみ思ってたものが、にわかに向う見ずな好奇心が胸に湧き立ってきて思うよう、
  23. 「ちょっと、私もずいぶんとんだわね、神々しい美しさを手に持ちながら、それをはんのちょっびりも自分ではお裾分けに預かれないなんて。 そうできもしたらあの立派ななつかしい方のお気にも入れようというのに。」
  24. こう言うが早いか、ばこをこじ開けて見ました。
  25. ところがその中には美しさどころか、どんな物もはいっていず、ただ幽冥界の、というよりしょうしんしょうめい地獄ステュクスの眠りだけが、蓋を取られると見る見る立ち昇ってプシケにかかり、こんめいもやでひたひたとあしじゆうを取り巻いてしまいました。 プシケは立ち処にその場にくずおれて、じっと身動もせず横になった有様は、眼をつむったかばねと何の相違もありません。
  26. さてクビードーはもう傷跡も固まり癒ってまいりましたので、長いこと大切なプシケと別れているのが我慢しきれなくなり、閉じ籠められてる寝部屋の上についた窓から脱け出すと、しばらくの休みに勢いをとり戻した翼に乗ってずんと進みも早く、プシケのところへ飛んで駈けつけました。 そして丁寧におちなく睡眠ねむりきとって、またもとの小筐の中へおさめかえすと、痛みのない背中の矢の尖端さきでプシケを呼びましていいますには、
  27. 「そらまた、可哀そうに、お前は今度も同じ好奇心ものずきから死ぬところだったじゃないか。 だけどともかくこれから、お母様の言いつけで使いにやられたその仕事を早く果しておしまい、あとのことは私が始末をつけるから。」
  28. こういうと身軽な良人ははねに委せて(飛んで)ゆきましたので、プシケも左右なくヴェヌスの許へとプロセルビナのつかいものを持って急ぐのでした。
  29. その間にもクビードーは身にあまる恋情おもいむしばまれておもてもやつれ、母親がすみやかに本気になっているのに酷く恐れをなし、またいつもの手を出して、はねの運びも早く天頂にけ入り、大神ユッピテルの御前に、事の次第を陳述のべたててお助けを願いました。 そうするとユッピテルは愛の神クビードーほっぺたをつねってその手を執り上げると接吻くちづけをし、徐ろにこうおっしゃいました。
  30. 「息子どの、貴神あなたはいつだって、神々が折角私に与えてくれた栄誉ほまれを尊重してくれたこともなく、かえって四大五元あらゆるもの法則おきて星辰ほし移行うごきをさえ処理する私のこの胸を、始終突き刺しては傷を負わせ、何度となく地上の愛欲に陥れては恥辱を与え、あのユーリアの法規にさえそむき公けの良俗にももとって、愚にもつかぬいろで私の名誉や評判をそこなってばかりいる、しかもながむしだの火だの野獣だの鳥だの野に群れる家畜だのに、けがらわしくもこの私の清麗きょらかな貌を変じさせてだ。 しかしながら私のいつも程を得た態度を忘れずに、貴神あなたがこの腕に抱かれて大きくなったことを考え、貴神あなたの願いはそっくりと聞き届けてあげよう。 が、それには忘れずによくこれからは自分の競争者に気をつけるのだぞ、でもし今度地上でもって容色みめかたちの並勝れて美しい乙女おとめを見つけたならば、この親切の返答には、ぜひその娘で礼をして貰わねばならんな。」
  31. こうおっしゃるとメルクリウスに言いっけて神さま方をみんなすぐ会議にお寄せ集めになり、もしこの天上の集まりに欠席すれば百万ひきの罰金をお取りになるようさせになりましたので、それが怖さに忽ち天上の集合あつまりは一杯になりました。 そこでユッピテルは高らかな御台座にいと高く座を占めさせて、こうことのりなさいました。
  32. 「わが神々たちよ、伎芸神女ムーサたちの(司る天上の)名簿にあるほどの方々、皆々がよく御存じのとおりここにいる若者は私の手で大きくなった者である。 私の考えではこの男の若い盛りの血気けっきにはやる行動ふるまいは、何かでもってぜひ制御する必要があると思うのだ、毎日のようにさまざまいろだの、ありとあらゆる乱行の悪い噂を立てられるにも程々があるからな。 それ故そんな機会をすべてもうなくしてしまって、結婚の足枷で青年の気儘気随を繫ぎ留めるのが一番好いことだろう。 ところでこの男は一人の乙女を選んで、それと深いあいだになっている。 だからその女と固いちぎりを結び、すえながそのプシケと添い遂げさせるのがよろしかろうではないか。」 そしてヴェヌスの方へお顔を向けておっしゃるには、
  33. 「また娘よ、あなたもふさいだり、また立派なすじが人間との婚約で家柄を下げはしないかなど気遣われぬがよい、私が今この縁結びを不釣合いでなく、正式で国法にも適ったものにしてあげるから。」
  34. そこですぐさまメルクリウスに言いつけてプシケをかたって天上へ連れて来させた上、不死の神饌アンブロシアさかずきに満たして差し出し、
  35. 「プシケ、さあ飲んでとこの命を得よ、さすればもういつまでもそなたの手から愛の神クビードーが傍へ外れることもなく、らいえいごうこの縁の絶えることもあるまいから。」
  36. と見るうちに、御婚礼の御馳走が処も狭しといっぱいに並べ立てられました。 一番の上席には花婿がプシケを傍らにひきつけて座を占めますと、同様にユッピテルもお妃のユーノ―ともども腰をかけ、またじゅんぐりにすべての神さま方も席にお仙酒ネクタルます。 そのとき仙酒ネクタルさかずきを、これはつまり神さま方の菊菊酒にあたるのですが、ユッピテルにはいつもの酒つぎのおしょうのあの野山にいた少年こどもが、他の神々にはまた酒神リーベルんではさし、ヴルカーヌスがお料理の世話を致しますと季節神女ホラたちは薔薇や色々な花びらでそこら中をくれないに照りかがやかせますし、優美神女グラティアたちにおいのよいくんこうをあたりにらし、伎芸神女ムーサたちはまためいめいと歌を唱いあげる、アポローンが七絃琴リーラを奏でなすと、ヴェヌスもたえな音楽に姿なり美しく舞いつれて踊り、そのかたには手順を決めて伎芸神女ムーサたちがむれを作って歌を唱ったり笛を吹いたりすれば、羊人サテュルスや若い牧神パーンふえを鳴らして合せます。
  37. こういう風にしてプシケは正式に愛の神クビードーの処へお嫁入りをしまして、やがて二人の間には月満ちて一人の娘が生まれる、これが『喜悦よろこび』と人の呼ぶ女神でございます。