聖ウルスラの聖遺物箱
メムリンク美術館、聖ヨハネ施療院、ブルージュ
これを聞いた人びとは、こぞって異議を申し立てた。 とくに枢機卿たちは、強硬に反対した。 教皇は分別をなくし、栄誉ある教皇の座をすてて愚かな小娘のあとを追おうとしているのだ、と考えたからである。 けれども、教皇は、彼らの反対にこころを動かされることなく、アメトスという名の聖徳の人物を自分のかわりに教皇位につけた。
しかし、聖職者たちの意向を無視して教皇の座を棄てたからというので、彼の名前は、歴代教皇表から抹殺され、清らかな乙女たちも、それまでローマ教会で受けていた好意をすっかり失ってしまった。 そのころ、ローマ帝国の軍隊の指揮官にマクシムスとアフリカヌスというふたりの悪将軍がいた。 彼らは、大勢の乙女たちを見、さらに多くの男たちや女たちがそれに参加するのを見るにつけても、この調子ではキリスト教の勢力が大きくなりすぎるのではないかと心配になった。 そこで、一行の帰り道を念入りに調べあげて、フン族の王ユリウスに使者を送り、この乙女たちはキリスト教徒であるから、一行がケルンに着いたら兵を出してみな殺しにしてもらいたいと伝えさせた。
一方、キュリアクスは、清らかな乙女たちの一行といっしょにローマを出発した。 助祭枢機卿のウィンケンティウスとプリタニア出身で7年間アンティオケイアの大司教をつとめたヤコブスのふたりも、キュリアクスのあとを追った。 ヤコブスは、そのころ教皇を訪ねてローマに来ていたのだが、すでに用事もすんでローマをあとにしていた。 ところが、そこへ乙女たちが到着したという知らせがとどいたので、いそいでローマにひきかえし、彼女たちの旅と殉教の道づれとなったのである。 また、バビラやユリアナの母方の叔父にあたるレヴィカナの司教マウリシウス。 ルッカの司教フォラリウス。 このころたまたまローマに来ていたラヴェンナの司教スルピキウス。 こうした人たちも、乙女たちと行をともにした。
ところで、ウルスラの婚約者アエテレウスは、ずっとブリタニアにとどまっていたが、ある日、ひとりの天使が夢にあらわれて、キリスト教徒になるよう母を説得しなさいと命じた。 というのは、父王のアエテレウスは、キリスト教に改宗して一年たたないうちに世を去り、いまは王子のアエテレウスが王位をついでいたのである。 さて、清らかな乙女たちが前述の司教たちとローマからもどってきたとき、アエテレウスは、すぐに花嫁のウルスラを迎えに出発し、ケルンでともに殉教の栄冠を受けなさいという主のお言葉を聞いた。 彼は、主のお言葉にしたがい、まず母に洗礼を受けさせると、母とすでに受洗していた妹のフロレンティナのふたりをつれ、さらに司教のクレメンスをもともなって乙女たちを迎えにいき、殉教するためにその仲間にくわわった。 これにギリシアの司教マルクルスとその姪のコンスタンティアもくわわった。 このコンスタンティアというのは、コンスタンティノポリスの王ドロテオスの妹で、婚約していたある国の王子に先立たれたあと、純潔を守る誓いを神に立てていたのであった。 このふたりは、夢のお告げを受けてローマにやってきて、乙女たちの一行にくわわって殉教することになった。
こうして乙女たちと司教たちは、ケルンに帰ってきたが、町は、すでに四方八方からフン族に包囲されていた。 フン族は、乙女たちの姿を見ると、大音声をあげておそいかかり、羊の群れにとびかかる狼のようにあばれまわり、一行を手あたりしだいに殺した。 ほかの乙女たちの首をみな刎おわると、いよいよウルスラのそばにやってきた。
フン族の王は、ウルスラの美しさにおどろき、うっとりとなって見とれた。 そして、仲間の乙女たちの死を悲しんでいる彼女に慰めの言葉をかけ、そなたを妻にむかえたいと申し出た。 ウルスラは、それをことわった。 王は、 侮辱 されたとおもい、矢を一本とって狙いを定め、ウルスラのからだを射抜いた。 こうしてウルスラに殉教の栄冠がさずけられたのである。
コルドゥラという名前の乙女は、恐怖心にとりつかれて一晩じゅう船のなかに隠れていたがあくる朝、みずからすすんで死地におもむき、殉教者の冠を受けた。 しかし、仲間の乙女たちといっしょに受難しなかったからというので、この乙女のための祝日はおこなわれていなかったのであるが、その後ずっと年月がたってから、彼女は、ある隠修女の夢枕にあらわれ、一万一千処女の祝日の翌日を自分の祝日にしてほしいと打ち明けた。 ところで、これらの乙女たちが殉教したのは、主の紀元238年であったということになっている。 しかし、ある人たちの説によると、年代の計算から言って、この年にそんな出来ことがあったとは考えられないという。 シチリアは、当時はまだ王国でなかったし、コンスタンティノポリスも、そうであった。 ところが、この物語では、これらの国の王妃が乙女たちと行をともにしたことになっている。 だから、殉教があったのは、皇帝コンスタンティヌスのときよりもあと、フン族やゴート人が諸国を荒らしまわっていたころ、すなわち、ある年代記にもあるように、マルキアヌス帝が帝位にあった452年のことだとしたほうがよさそうである。
ある修道院長があって、ケルンのさる女子修道院長から一万一千処女のひとりの聖遺骨をもらい受け、銀の 聖遺物匣におさめてわたしの修院聖堂に安置しますと約束した。 しかし、まる一年のあいだ木の 匣に入れて祭壇のうえに置いたままにしていた。 すると、ある夜のこと、院長が修道士たちと早朝のミサをつとめていると、くだんの童貞聖が生前の姿のまま祭壇のうえから降りてきて、祭壇のまえで深々とお辞儀をすると、怖れおののいている修道士たちを尻目に内陣の中央をとおって出ていった。 院長があわてて聖遺物匣のところに行ってみると、匣のなかは、空っぽであった。そこで、院長は、いそいでケルンに行き、女子修院長に一部始終を話した。ふたりの院長がその聖遺骨を取りだした場所に行ってみると、遺骨はここにもどっていた。 修院長は、ふかく許び、もう一度その聖遺骨か、あるいはベつの聖遺骨をおゆずりいただきたい、こんどはすぐに銀の聖遺物匣をつくらせますから、とたのみこんだが、願いはかなえられなかった。
ひとりの修道士がいて、これらの処女たちにあつい崇敬をささげていた。 ある日のこと、重病で臥せっているところへ世にも美しいひとりの乙女があらわれて、わたしを知っていらっしゃいますか、とたずねた。 修道士は、この幻影におどろいて、いいえ、まったく存じあげません、と答えた。 乙女は、
「わたしは、あなたがひたすらに愛をささげてくださっている処女のひとりで、その愛のお返しに来たのです。 わたしたちに愛と崇敬をささげながら〈主の祈り〉を一万一千回となえなさい。 そうすれば、臨終のときにわたしたちの加護と慰めが得られましょう」
そう言うとともに、乙女の姿は、かき消すように見えなくなった。 修道士は、彼女に言われたことをすぐさま実行し、修道院長をよんでもらって、終油の秘蹟をさずけてくださいと言った。 終油を受けていたとき、彼は、突然、まわりに立っている修道士たちにむかって、聖のみなさんが通れるようにそこをどいてください、と大声で言った。 どうしたのですか、と院長がたずねると、彼は、夢に見た乙女が約束してくれたことを話して聞かせた。
そこで、一同は席をはずした。しばらくして部屋にもどってみると、修道士は、すでに主のみもとに旅だったあとであった。