聖ウルスラの聖遺物箱
メムリンク美術館、聖ヨハネ施療院、ブルージュ
国の政治は、あとに残った王子のひとりが引き受けることになっていた。 乙女たちがさまざまな国から集められたのも、このゲラシナの助言によることであった。 彼女は、終始乙女たちの指導者であり、最後は乙女たちと殉教をともにしたのだった。
さて、決められた条件どおり侍女たちも集まり、船の用意から食料の準備までととのうと、ウルスラは、仲間になってくれる乙女たちに自分の秘密の計画を打ち明けた。 乙女たちはみな、騎士として忠節をつくして従軍いたしますと誓った。 そして、実戦さながらの戦闘訓練をはじめた。 集合したり、散開したり、撃って出たり、退却したり、ありとあらゆる戦術の訓練にはげんだ。 思いついたことは、なんでも稽古してみた。 行軍に出かけると、ときにはお昼ごろ帰ってくることもあれば、ときにはほとんど日が暮れるまで帰らないこともあった。 王侯や貴族たちも、この訓練の様子を見物にやってきては、みな感心したり、大喜びしたりした。 やがてウルスラは、乙女たちをみんなキリスト教に改宗させると、ついに出発の号令をくだし、順風を受け一日にしてテュエラというガリアの港に着き、そこからケルンの町にやってきた。
ここで主の御使いがウルスラにあらわれ、あなたがたはもう一度いっしょにこのケルンに帰ってきて、ここで殉教の栄冠を受けるでしょう、と告げた。 やがて彼女たち一行は、天使の指図にしたがってローマをめざして出発し、バーゼルの町まで来ると、ここで船を降りて、徒歩でローマにむかった。
教皇キュリアクスは、一行の到着をよろこんで迎えた。 というのは、教皇自身も、ブリタニアの生まれで、一行のなかに親類縁者も多かったからである。
そういうわけで彼は、すべての聖職者ともども乙女たちをてあつくもてなした。 その夜、教皇は、これらの乙女たちといっしょに殉教の冠を受けるであろうという天主のお告げを聞いた。 しかし、彼は、それを自分の胸に秘めておいて、侍女たちのうちまだ受洗していなかった者に洗礼をさずけた。 そして、いよいよそのときが来たと見るや、多くの会衆をまえにして自分の決意を告げ、聖務と教皇位をしりぞいた。 聖ペトロからかぞえて十九代目の教皇として彼が教会を統治した期間は、一年と十一週間であった。