聖ウルスラの聖遺物箱Het Ursulaschrijn

聖ウルスラの聖遺物箱、メムリンク美術館、聖ヨハネ施療院、ブルージュ(ブルッヘ)
《聖ウルスラの聖遺物箱》

ブルージュ(Bruges)(Sint)ヨハネ(Jans)施療院(hospitaal)だったメムリンク(Memling)美術館に、聖ウルスラの聖遺物箱(Het Ursulaschrijn)が展示されている。
初期フランドル派の巨匠のひとりであるハンス(Hans)()メムリンク(MEMLING)の作品で、1489年に祝福儀式を証明する史料が残っているため、ちょっと前に製作されたと断言できる。
昔は、一年にたった一回、聖ウルスラの祝日、10月の21日の日にのみしか公に施療院に展示されていなかったのです!
1475年に完成した、聖ヨハネ施療院の前のマリア(Maria)()ストラアート(straat)(マリア通り)の向こうにある聖母教会(Onze-Lieve-Vrouwekerk)に見える、土台を除いた 天国の門(Paradijsportaal) と聖遺物箱が以上に似っているため、メムリンクがそこから形を決めたのではないかとつよく思われる。
15世紀だと、聖ウルスラ伝説はキリスト教の主な著書といえるヤコブス(Jacobus)()(de)()ヴォラギネ(Voragine)が著した『黄金伝説(レゲンダ・アウレア)』の「11 000処女」章で知られているため、メムリンクがこの作品のため、この文書に基づいたとも断言するのは可笑しくありません。
聖遺物箱では、たった6つの細密画だけで伝説が正確に見事に物語られていて、よりよく評価するよう、以下、写真と文書を対照的に提供している。


11 000処女

一万一千人の乙女たちが殉教したいきさつは、以下のとおりである。
ブリタニア(Britannia)ノトゥス(Nothus)もしくはマウルス(Maurus)という名の(けい)(けん)なキリスト教徒の王がいた。王には娘がひとりあって、その名をウルスラ(Ursula)といった。 品行ただしく、聡明で、みめかたちも美しかったので、その評判は、津々浦々にまで聞こえていた。
さて、当時のイングランド(Anglia)王は、たいへん強力で、多くの部族を支配下に置いていた。 ウルスラの高い評判は、この王の耳にもとどいた。 彼は、その乙女を自分のひとり息子の嫁にむかえることができれば、これにまさる喜びはあるまい、と言った。 若い王子も、ぜひその乙女を妻にしたいものだと考えた。 そこで、ウルスラの()(おう)のもとに盛大な使節団を送りこむことにした。 そして、(いん)(ぎん)に礼をつくし、相手の意をむかえることをいろいろ約束してやれ、ただし、色よい返事をしそうになかったらおどしをかける手も忘れるでないぞ、と使者たちに言いふくめた。 ブリタニアの王は、使者の口上を聞いて、困ったことになったものだと頭をかかえこんだ。 というのは、キリストの教えを信仰しているわが娘を偽神の崇拝者にあたえる気にはなれなかったからである。 それに、娘がこの結婚にけっして同意しないであろうことも、おおよそ見当がついていた。

《ケルンでの到着》、《バーゼルでの到着》、《ローマでの到着》、聖ウルスラの聖遺物箱、メムリンク美術館、聖ヨハネ施療院、ブルージュ(ブルッヘ)
ケルンColoniaでの到着》、《バーゼルBasileaでの到着》、《ローマRomaでの到着》

他方では、イングランド王の(きょう)()(ぼう)さがおそろしかった。 けれども、ウルスラは、天主のおさとしがあったのであろうか、イングランド王の申し出をお受けなさいと父王にすすめた。 ただし、イングランド王とお父さまで10人の乙女を()りすぐって、わたしの道づれにつけ、わたしと乙女たちにそれぞれ侍女を1000人ずつあたえてください、そして、わたしたちが乗る船を何(そう)か用意してください、それから、わたしが純潔をささげるまでに3年間の()(うよ)をみとめてください、そのあいだにイングランドの王子は洗礼を受け、キリスト教の教義を3年間勉強してくださらなくてはなりません、これがわたしの条件です――ウルスラは、父親にそう言った。

《守護者である聖ウルスラ》、聖ウルスラの聖遺物箱、メムリンク美術館、聖ヨハネ施療院、ブルージュ(ブルッヘ)
《守護者である聖ウルスラ》

これは、たしかに名案であった。 この難題をつきつければ、イングランドの王子もその野望を思いとどまるだろう、思いとどまってくれなければ、自分とこれらの大勢の乙女たちを天主にささげようというのが、ウルスラのひそかな念願であった。 ところが、王子のほうは、なにひとつ文句をつけずにウルスラの条件をのみ、みずから父のイングランド王を熱心に説きふせた。 そして、さっそく洗礼を受けて、ウルスラから出されたすべての要求をいそいで実行に移せと命じた。 また、娘の身の安全を案じた父親のはからいで、ウルスラと乙女たちの一行(いっこう)には護衛役の男たちもついていくことになった。 こうして国じゅうから乙女たちが集まってきた。 この盛大な(かど)()の光景を見んものと駈けつけてきた男たちもあった。 それに、彼女と巡礼の旅をともにする司教たちも続々と集まってきた。

そのなかには、バーゼルの司教パンタルス(Pantalus)もいた。 この人は、このあと一行をローマ(Roma)まで案内し、その帰途乙女たちといっしょに殉教したのである。 聖ゲラシナ(Gerasina)もやってきた。 彼女は、シチリアの王妃で、狼のように残忍であった夫の国王をいわば小羊に変えたのである。 彼女はまた、司教マウリシウス(Mauritius)ダリア(Daria)(ウルスラの母)との姉妹でもあった。 彼女は、ウルスラの父から秘密を打ち明ける手紙をもらうなり、神のお告げを受け、バビラ(Babilla)ユリアナ(Juliana)ウィクトリア(Victoria)およびアウレア(Aurea)という4人の娘たちをつれて海路はるばるブリタニアまでやってきたのである。 まだいとけない王子のハドリアヌス(Hadrianus)も、姉たちをしたっていっしょに(ふな)(たび)をしてきた。


 註釈

ブルージュ

ブルージュ(Bruges) は、フランス語から由来している歴史的な呼称で、現在、フラマン語での ブルッヘ(Brugge) のほうに改める推薦もある。


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