聖ウルスラの聖遺物箱
メムリンク美術館、聖ヨハネ施療院、ブルージュ
ブルージュの聖ヨハネ施療院だったメムリンク美術館に、聖ウルスラの聖遺物箱が展示されている。
初期フランドル派の巨匠のひとりであるハンス・メムリンクの作品で、に祝福儀式を証明する史料が残っているため、ちょっと前に製作されたと断言できる。
昔は、一年にたった一回、聖ウルスラの祝日、の日にのみしか公に施療院に展示されていなかったのです!
に完成した、聖ヨハネ施療院の前のマリア・ストラアート(マリア通り)の向こうにある聖母教会に見える、土台を除いた 天国の門 と聖遺物箱が以上に似っているため、メムリンクがそこから形を決めたのではないかとつよく思われる。
だと、聖ウルスラ伝説はキリスト教の主な著書といえるヤコブス・デ・ヴォラギネが著した『黄金伝説』の「一万一千処女」章で知られているため、メムリンクがこの作品のため、この文書に基づいたとも断言するのは可笑しくありません。
聖遺物箱では、たった六つの細密画だけで伝説が正確に見事に物語られていて、よりよく評価するよう、以下、写真と文書を対照的に提供している。
一万一千処女
一万一千人の乙女たちが殉教したいきさつは、以下のとおりである。
昔ブリタニアにノトゥスもしくはマウルスという名の敬度なキリスト教徒の王がいた。王には娘がひとりあって、その名をウルスラといった。 品行ただしく、聡明で、みめかたちも美しかったので、その評判は、津々浦々にまで聞こえていた。
さて、当時のイングランド王は、たいへん強力で、多くの部族を支配下に置いていた。 ウルスラの高い評判は、この王の耳にもとどいた。 彼は、その乙女を自分のひとり息子の嫁にむかえることができれば、これにまさる喜びはあるまい、と言った。 若い王子も、ぜひその乙女を妻にしたいものだと考えた。 そこで、ウルスラの父王のもとに盛大な使節団を送りこむことにした。 そして、慇懃に礼をつくし、相手の意をむかえることをいろいろ約束してやれ、ただし、色よい返事をしそうになかったらおどしをかける手も忘れるでないぞ、と使者たちに言いふくめた。 ブリタニアの王は、使者の口上を聞いて、困ったことになったものだと頭をかかえこんだ。 というのは、キリストの教えを信仰しているわが娘を偽神の崇拝者にあたえる気にはなれなかったからである。 それに、娘がこの結婚にけっして同意しないであろうことも、おおよそ見当がついていた。
他方では、イングランド王の兇死暴さがおそろしかった。 けれども、ウルスラは、天主のおさとしがあったのであろうか、イングランド王の申し出をお受けなさいと父王にすすめた。 ただし、イングランド王とお父さまで十人の乙女を選りすぐって、わたしの道づれにつけ、わたしと乙女たちにそれぞれ侍女を千人ずつあたえてください、そして、わたしたちが乗る船を何艘か用意してください、それから、わたしが純潔をささげるまでに三年間の猶予をみとめてください、そのあいだにイングランドの王子は洗礼を受け、キリスト教の教義を三年間勉強してくださらなくてはなりません、これがわたしの条件です――ウルスラは、父親にそう言った。
これは、たしかに名案であった。 この難題をつきつければ、イングランドの王子もその野望を思いとどまるだろう、思いとどまってくれなければ、自分とこれらの大勢の乙女たちを天主にささげようというのが、ウルスラのひそかな念願であった。 ところが、王子のほうは、なにひとつ文句をつけずにウルスラの条件をのみ、みずから父のイングランド王を熱心に説きふせた。 そして、さっそく洗礼を受けて、ウルスラから出されたすべての要求をいそいで実行に移せと命じた。 また、娘の身の安全を案じた父親のはからいで、ウルスラと乙女たちの一行には護衛役の男たちもついていくことになった。 こうして国じゅうから乙女たちが集まってきた。 この盛大な門出の光景を見んものと駈けつけてきた男たちもあった。 それに、彼女と巡礼の旅をともにする司教たちも続々と集まってきた。
そのなかには、バーゼルの司教パンタルスもいた。 この人は、このあと一行をローマまで案内し、その帰途乙女たちといっしょに殉教したのである。 聖ゲラシナもやってきた。 彼女は、シチリアの王妃で、狼のように残忍であった夫の国王をいわば小羊に変えたのである。 彼女はまた、司教マウリシウスとダリア(ウルスラの母)との姉妹でもあった。 彼女は、ウルスラの父から秘密を打ち明ける手紙をもらうなり、神のお告げを受け、バビラ、ユリアナ、ウィクトリアおよびアウレアという4人の娘たちをつれて海路はるばるブリタニアまでやってきたのである。 まだいとけない王子のハドリアヌスも、姉たちをしたっていっしょに船旅をしてきた。